人間離れしたデカ目を強調する写真を見て、被写体もそうですがそれを簡単に世の中に晒してしまう醜さに気付いていないことの方が余程問題だと思いますが、こんなことが続くのならば「写真」という言葉そのものを見直した方が良いのではないかと感じます。
どこにも真実の姿などないものに、わざわざ「写真」と呼べる要素などありません。
「写嘘」とか「写盛」とか「写虚」とか、そんな言葉でよいのではと思ってしまいます。
「アプリがあるから使ってるだけ」という言葉も頻繁に耳にしますが、このような感覚が蔓延してしまい、「短歌があるから使っているだけ」という状態になってしまったのかもしれません。
短歌はアプリではありません。
誰でもに解放されてはいますが、作ったからといって何でも短歌と呼べるものではありません。それはデカ目の写真が写真とは呼べないのと同じです。
匿名性や、短歌というプラットフォームの手軽さに箍(たが)を外しているだけで、遊びという言い訳を常に傍らに持っておきたいが為だと思います。
つまり短歌はなめられています。
あれもよし、これもよし、お仲間のよしよしばかりで誰も何も断罪しないことが続いて、確固たる方向性を持たないまま垂れ流してきた結果が招いたことです。
あれもこれも短歌だと言える時代は終わろうとしています。
そうしなければ、短歌や和歌そのものが存在意義を失うからです。
過剰な解釈で作者や作品を実態以上に持ち上げるクセのある現代人だからこそ、大なたを振るって断罪し、はっきりと区別しなければ解らないのでしょう。
歌人と呼ばれる人達には、一生をかけて渾身の一首、渾身の一冊を残してほしいものです。
わずか一首も、わずか一冊もそれが残せないのであれば、それは歌人と呼ぶべき、呼ばれるべきではないのだと思います。
ただ流行に乗ってアプリを使うように短歌に乗っかっている歌人モドキを誰がぶちのめすのか、そんな期待ができるのか、できないのか、短歌界に科せられた最大の課題であると思っています。
本来ならば当然のように言葉を磨くフェーズに入っていなければならない所を、プロの歌人ですら磨く域にはほど遠い現状に、落ちぶれた歌界と落ちぶれさせた歌人たちは何も感じていないのかもしれません。
ツイートもデカ目も、文化と呼べるかもしれませんが、文学や芸術ではないのは明らかです。
短歌が目指す方向ではないことくらい、誰でも解るはずなのですが・・・。
2020年12月10日
短歌 ミルク