個人的には、三者が登場する短歌が最もエキサイティングで面白い短歌だと思っています。
短歌の中に一人どころか三人の心模様が映し出される様子は、俄かに短詩とは思えない程の力を秘めているものです。
やれ一人称とか、背景に一人の人間が見えるとか、作者、読者、作中主体などとまどろっこしい説明をいちいち述べなければ伝わらないような短歌になってしまっては、ストンと素直な心に落ちてくる読後感など得られるはずもありません。
「わたくしせい」が何を意味するのかなんて、もはやどうでも良い話です。
そんなものを崇拝しているから自分自身に張り付いたヘドロのような歌しか出て来ないのだと思います。自分にこびり付いた歌は読解出来ないだけではなく、行き過ぎると気持ち悪さすら感じさせます。「私性」の押し売りのようなものです。
何度言ってもなかなか理解されませんが、
「自分のことを詠うこと」と「自分にこびり付いたことを詠うこと」は異なります。
自分のことを詠われている俵万智さんの歌が素直に受け入れられるのは、作者が押し売りをしていないからであって、一番大切なことをしっかり踏まえた上で作歌をされているからだと思います。
これらの根本は、小さな事象に対して動いた心の振れと、衝撃的な事件に対して動いた心の振れを同じ尺度で量っているからに他なりません。
人はすぐに自分だけに起こった出来事を一大事のように思ってしまうクセがありますが、一時的な衝撃の大きさや影響の広さではなく、身近な草木や虫に起こった出来事も同じように扱える度量がなければ、安定した作歌環境など持ち得ないでしょう。病気になったから、貧困だったから、不幸な境遇に生まれたから・・・。そんな事でもなければ歌が詠めないとは思えません。単に不幸比べをしても歪んだ意識が形成されるだけで、塔和子さんのような「浄土」を思わせるような言葉を紡ぐことはできないでしょう。上には上があり、下には下がどこまでもあるのです。
作歌の過程で一匹の虫に、一輪の花に、一陣の風に、ひとすくいの流れに、そして一粒の砂になってみることこそが、短歌の醍醐味であり神髄なのではないでしょうか。
「私」も大いに結構ですが、「私」などたかが百年の入れ物に過ぎません。
歌には永遠があります。計り知れないほど生き続ける心があるのです。
2020年12月1日
短歌 ミルク