自分が生きてきた軌跡を残すには、一体どのような方法が良いのでしょうか。
多くの人が自身の才能や子供や孫に託して、子育てをしたり仕事や趣味に精力を傾けているのだと思います。「形として残す」ということは本当に難しいことです。あらゆる形在るものはいずれ粉々に砕けて消えてなくなってしまうという運命に、僅か百年余りしか生きることの出来ない人はどうすれば抗うことができるのでしょうか。
それは愚問だと神様に言われてしまいそうですが、人はいつの時代も自分だけは特別な生き物という呪縛から逃れられずに生き続けています。
短歌を勉強し始めてから、特に感じることがあります。
「残るものは残そうとするものではなく、誰かが必要だと感じて残して貰えるものだ」
つまり自分であがいて残そうとしても、それらは何の意味も持たないということに他なりません。すべては自己満足の世界で終わり、自らの終わりと共に此の世からは消えて無くなるようなものだという考えです。歌の世界にも通じるとても深い意味を持つ言葉だと思いますが、華道のような習いごとにも通じるような気がしています。
どんなに美しく花を生けても、それを百年維持することはできませんし、維持することや真似することが目的でもありません。その花が生けられた空間と命と命の刹那を愉しむものであり、残す事など微塵も想定されてはいないでしょう。
形や記録では決して残せないものこそが、道と名乗れる所以であると思います。
極めるということが究極の目的であり永遠に辿り付けないゴールであることを知って尚その道を歩く覚悟を持って望むことが宿命付けられています。真っ直ぐで清廉で、一途な姿を多く見かけるのは何方もこのような険しい道を歩かれているからなのでしょう。
そこには自分の何かを残したいというような邪な気持ちは感じられません。しかし流れる時のその一瞬に目に見えない力で刀を振り下ろしたような鋭さと、時が止まったと錯覚するほどの衝撃を見るものに及ぼしています。
甘ったれた短歌の世界がまるで子供のお遊戯に見えてしまう程、残ってゆくものの重みを感じることが出来るのです。
道を目指す短歌、道を目指す歌人がどれほどいるのでしょうか。
もはや短歌には道を目指すことなど無理なのかもしれません。
残すべきものの意味を真剣に考えなければ、永遠にお遊戯を続けるだけになってしまうでしょう。
年賀状が無くなってゆくように、短歌もいつか無くなってしまうのかもしれません。
2020年12月4日
短歌 ミルク