・ 人が眼を使って見た景色ではなく、人の眼そのものが見た景色を詠う
作歌の姿勢に対して最も勘違いが多いのがこの部分です。
歌が薄っぺらいものになるのか、幅広い解釈に耐えうるものになるのか、それがこの部分で大きく分かれます。自意識による主観の匂いをどれだけ遠ざけることができるのか、作歌には常にそれが求められています。
次の例は人の意識を次第に変化させて作ったものです。美しい夕焼けとそのカラメルのような色をモチーフにしていますが、微妙に作歌の視点をずらしています。
1・夕焼けのキャラメリゼ手で掬い取る包み紙には星をちりばめ
2・立ち尽くす私に降らせ纏わせてカラメルソースのような夕日を
3・一日を終えて背にするカラメルの空に落ち着く人影無くも
4・ご褒美のように綺麗なカラメルの栞で閉じる一日もあり
1の立ち位置では、人がキャラメリゼのような夕日を掬って、その後訪れる星空の包み紙でくるむというお菓子を作るような工程を比喩として用いています。
2の立ち位置では夕日をカラメルソースになぞらえ、一人立ち尽くす味気ない私に対して、まるで料理を完成させるかのようにソースを纏わせてくれという願望を込めた表現で表しています。
3の立ち位置は1や2からもう少し離れて、環境映像を見ているような感じで空以外にも町の様子にまで視野を広げた作歌になっています。夕日や夕焼けという言葉は使用せずカラメルと空、そして一日を終えてという表現で夕方に辿りつかせようとするものです。
4の立ち位置は単純明快です。真っ直ぐに綺麗と表現した夕景はまるで褒美のようで、普通の栞ではない特別な栞として今日を閉じるという、人や街も含めた広い世界を対象に含めています。
それぞれに良い所も悪いところもありますが、読んだ一瞬だけではなく、その一時間後、一日後、一ヶ月後、一年後、十年後にまた読み返したとするならば、歌の賞味期限のようなものの長さが異なるような気がします。
そしてそれは、事象が自分に近い所で詠われれば詠われるほど、短くなるのではないかと思います。「自分だけの出来事」「自分自身の視点」に近ければ近いほど、とても浅く短い味わいにしかならず、自分のことから離れれば離れるほど、時間や年月の浸食に耐えられるような感覚があります。
作歌の心を辿るという作業は、単に追体験をするということでもありませんが、基本的には誰でもが想像や体験しうる出来事や物事でなければ、同じ振り幅の感覚や景色に出会うことができません。特定の人の決まった視点では、ピントがばっちり合えば鮮明な景色が見える一方で、至極狭い範囲でしかピントが合いません。そしてそれは決まって浅い景色になってしまっています。物事の手前にあるものから、すっと奥にあるものまで、ピントの合う位置を変えながら奥行きを味わうことができる歌には、とても広い視点と柔軟な深度が具わっているものなのです。
もしも自分の眼ではなくて、自分のカメラが見た景色だとしたら・・・。そのくらい自分というものの意識を薄くしなければ、決して描けない世界があることを知るべきだと思います。
・ 歌の賞味期限を意識する
多くの歌が割り箸のように投稿されては捨てられてゆく現代において、歌の賞味期限を意識することはとても大切です。素朴で美しい歌は、厳しい時間の荒波に打ち勝って自分の人生に寄り添う宝石となります。幾度も読んで、目を閉じて暗唱して、歌がどれほど心に留まれるのか、求められるのか、読者としての眼も磨かなければなりません。
作歌に優る読解の時間を経てはじめて、歌の深みに触れる所までゆけるのです。
雰囲気や日記代わりの短歌モドキをふるいにかけて、流行や固有名詞や難解な言葉や、ただ古いだけの雰囲気に惑わされない読み方を身につけたいものです。
素朴な歌は全く主張もせず、大人しく、華やかさも少ないでしょう。
しかし、本当に大輪の花を咲かせなければならないのは、歌の上ではなくて心の中なのではないでしょうか。
私たちはそのことを常に肝に銘じて短歌に触れなければならないのです。
・ カラメルは小さな町を包み込む 今日という日よ やさしくなあれ
2020年5月27日
短歌 ミルク