・ 歌意はあくまで作者のもの
「解釈は読者に委ねます」という表現をよく見かけます。そのほとんどは自分でも歌意を説明することができないデタラメな歌に多く見られます。中途半端な想像で歌を作り、陳腐な落差を演出してコンテンポラリーな短歌を装う姿勢は、短歌にとってあるまじき姿だと想います。
素人の私でも「短歌とは事象のカステラを切った断面です」そして「歌意は作った人のものです」と、言いきることができます。その事を常に頭に置いて短歌と向き合っているからです。
一体どれだけの歌人が
◇「短歌とは?」
◇「歌意はどちらにありますか?」
この2つの問いに真っ正面から答えられるのでしょうか。
この2つの問いの答えを濁すようであれば、歌人と呼ぶべきでもありませんし、呼ばれるべきでもないと考えています。
雰囲気短歌がやりたければ、「雰囲気短歌」というカテゴリーで創作するべきです。
事象というカステラを言葉の刃物で切った断面ですから、私の意志で私の刃物で私の角度で切ったものです。
読んだ人がどのような解釈をしたとしても、一点透視法のようにその歌意に収束してゆかなければなりません。歌意の根幹がしっかりと固定されていて、その上で幅広い解釈や理解を伴うものでなければ、歌はただフラフラと宙に浮いたままの状態だと思います。
・ 歌意を作文できるくらいまで煮詰めて曖昧なままにしない
歌を作る際の瞬発力も大切ですが、殆どの場合は十分に時間を掛けることができるはずです。私は十分に歌の世界の詳細をつまびらかにした上で短歌として組み立てることが重要だと思っています。作者が細かい所までを語ってしまうと、読者の想像や解釈の間口を狭くしてしまうというような意見もありますが、私は自分が作った歌の解釈がとんでもない方向へ行ってしまうことの方が気持ちが悪いと感じています。
ですからいつ何時、どの歌について聞かれたとしても答えられるくらいに、考察を重ねて作歌するようにしています。短時間で作ることや多くを作ることは、それを行っているだけでは何の意味もありません。
● 支点=歌意
● 力点=作歌(歌そのもの)
● 作用点=読解による解釈
以前にテコの原理に倣って書いたものですが、歌意の定まった歌はブランコに、歌意のあいまいな歌はトランポリンに例えてお話をさせていただきました。
同じブランコでも、力点までの紐の長さが長ければ長いほど、大きな弧を描く訳です。
公園のブランコよりも、サーカスの空中ブランコです。
同じ歌意をもって作ったとしても、より深い考察を経て解釈や視点に幅を持たせた歌は明らかに違います。何度読み返されてもそれに耐え、心に刻まれるものになると思います。
同じ歌意でありながら、より深い解釈に誘えるように歌を整えてゆくことは、多くの時間を必要とするはずです。つぶやきのようにインスタントでは決してありません。心にきちんと残り、諳んじられる短歌、そのような自分の持ち物のような歌を持てることが、短歌に触れたことの大きな収穫となるのですから、育てることに向き合わなければならないでしょう。
2020年5月20日
短歌 ミルク