お寿司のネタは新鮮な方が良いに決まっています。リーズナブルな回転寿司も一等地の高級寿司店も、そのネタが新鮮かどうかは簡単に判別できるでしょう。しかしなぜ価格が大幅に違うのでしょうか。その付加価値の意味するところは一体何なのでしょうか。
それが単なるこだわりや場所代やネタの単価の高さではないような気がします。もちろん調理する料理人の技術やセンスも加味されてはいるのでしょうが。
刺身の旨い魚は、たとえサイコロのように真四角に切ったとしてもおいしいものです。
ただし間違った切り方をするとどんな高級魚も途端に普通の魚に成り下がってしまいます。一つ一つの素材に対する向き合い方も大きく異なっているのでしょう。
娯楽と文化の二極へと、俳句や短歌は舵をきっているのかもしれません。
※ここからは一種の例えです。優劣を問うているのではありません。
回転寿司(娯楽)趣味で気楽に楽しめればよい。新鮮さと手軽さが一番。
専業寿司店(文化)素材への探求を続けたい。新鮮なことは当たり前でその次が大切。
SNSや投稿サイトなどで続けられていることは、言わば回転寿司に近い出来事なのだと思います。誰しもが初体験するような内容の歌やあるある歌が多数の初心者と共に入れ替わり立ち替わりグルグルと廻っています。もはやこの中で一番などと言われたとしても、誰もそんな事を珍しがることもないし、褒め称えることもありません。あくまで回転寿司の範疇の中の出来事です。
本当にお寿司が心底好きな人は、いずれ回転寿司を飛び出して外の世界へ行ってしまいます。それは価格や手軽さなどではなく、熟練の価値観で厳しく判断される世界です。素材や鮮度、調理の道具から行程、技術に至るまで、それぞれが極めようとしている道の轍を確かめに行くようなものだと思います。
回転寿司をどんなに制覇したとしても、(文化)の神髄には触れることができないでしょう。そこは鍛錬や修行の場などではありません。
専業寿司店(文化)を目指す職人は、決して回転寿司で修行を続けようとは思わないはずですが、短歌を巡る現状は両者の職人が入り乱れて雑多になった状態に近いと思わざるをえません。
これ見よがしに腕の良い職人が回転寿司に紛れ込んだり、高級寿司店に似つかわしくない下手な職人が混ざっていたり、もはや「娯楽」と「文化」の間を彷徨っているような気配すら感じてしまいます。
「プロ歌人」を名乗るのであれば、商業的にも成功して自立して欲しいと思いますし、それが「歌人」の宿命でもあると思います。広く一般に普及する為に草野球が必要なことに間違いはありませんが、それはプロ野球あってのことです。明確な線引きがあり、商業的な裏付けがあります。
結社組織が優秀なプロの卵を産み出す礎となっているのかも怪しいところですし、忖度や足の引っ張り合いでつぶし合う、チームにすらなっていない現状では、切磋琢磨すら出来る状態ではないのかもしれません。
「これこそがプロの実力」という歌集を、俵万智さん以外には見いだせないことが、とても不思議かつ残念に思えてなりません。「歌人」と名乗られる皆さん、どうか底力を見せて下さい。きっと(文化)で有り続けるという大義を背負う覚悟を持たれているはずですから。
2020年11月18日
短歌 ミルク