「直しは?」「入りません!」
というような完成型の歌は、そうそうできるものではありません。
大抵の歌は(まだどこか良くなりそうなところ)を含んでいるものであり、その機が熟すのを待っています。それは三分後かもしれませんし、三年後、いや三十年後かもしれません。俳句のようにたいへんに厳しい音数ではありませんが、それでも更に余白をもった歌にできるかどうかの分かれ目とも言える推敲作業を決して疎かにはできません。
推敲に殆ど時間を掛けずただただ垂れ流す作歌ばかりを続けていては、煌めく言葉に出会える訳がありません。研いで研いで研ぎ疲れた頃に小さく灯る表現の火を見ずに、付かないマッチだと諦めて捨ててしまっては、無駄な浪費と揶揄されても仕方ないでしょう。
擦過する角度やマッチ棒の持ち方や当てる強さを変えて試すように、あるいは時間を掛けて乾燥するのを待って再度チャレンジしてみる気持ちが無ければ、歌に温もりも明るさも届かないことでしょう。
古の言葉や表現、旧仮名などの遺産はこのマッチの炎によく似ています。
マッチがもたらす独特の感覚は、すぐには現在の道具での置き換えが難しいかもしれませんが、もはや擦らなくてもその様子、その情景を想像することは十分にできるはずです。
「敢えてマッチを擦る」ということと「敢えて古い表現や旧仮名を使う」ということが、かなり近い事象であることを認識するべきであり、そのことこそが想像性を巧みに働かせる原動力になるのだと思います。
実生活においてマッチを使うことは殆ど無くなりました。マッチはおろか炎の姿を見ることも希になりました。それでも幾度かの経験で記憶された炎の感覚は薄れずに残っているものです。そこから気持ちの種を育ててゆけば、手に取れる、また肌に感じる葉や弦や花が見られるかもしれません。要は自分に育てる気持ちがあるのかどうかということなのでしょう。時間感覚や五感の繊細さを受け止める心がなければ、一瞬だけ現れる情景を見逃してしまうことは簡単なのですから。
やいのやいのと返信を催促するようなSNSに毒された人達も、手紙を書いたことはあるでしょう。漏れ出す爆音で周りの人を不快にしてしまうヘッドフォンを付けた人達も、糸電話の声に耳をすませたことがあるでしょう。
忘れている、怠けている、独りよがりになっているだけなのです。
オリンピックの採火でもあるまいし、「未だ炎を見るためにはマッチを擦らなければならない」という呪縛から逃れられないのが、頑なに古語や旧仮名でなければ短歌ではないと宣う人達に代表される、決して心の中でマッチが擦れない人達だと思います。
地道に静かに言葉と向き合う人を置き去りにして、短歌は滅びの道を突き進んでいるようです。言葉はいったい、どちらの見方になってくれるのでしょうか。
2020年11月24日
短歌 ミルク