相変わらず多作多投の続く若人の短歌界隈ですが、メカニズムやレンズ性能に任せて撮った中の一枚がマグレで褒められるような、そんな偶然は短歌には起こりません。
他人の作品をそのまま拝借したような狡いことをする以外、自分の中にある語彙を使って作らなければなりません。煌めく断面、瑞々しい言葉、切ない情景などがきっかけとなって歌は作られることが多いと思いますが、余程精巧な嘘でもなければ達人にはすぐに見破られてしまうことでしょう。
(ああ、こいつは頭の中だけで考えて作ったな)
親になれば誰しもが子供の突拍子もない発見や発言に感動し、すぐに詠いたがるものですが、子供や若者の視点や言葉が突拍子もなく瑞々しいのはごく当たり前のことです。
17歳はやさぐれた中年のおじさんのような言葉も使わないし、6歳は村の長老のような人生を達観したような仕草などしないものです。自分の気づきはあくまで自分の気づきでしかなく、
「気付きを伴っている何か」を明らかにするための入り口でしかありません。
その「何か」にまで思考が及ばないのであれば、それは短歌とは呼べないでしょう。
ただのつぶやきか日記です。
マグレでも気に入った写真が撮れたら、引き延ばして部屋に飾るかもしれませんし、自分以外の誰かが見るかも知れません。さあ、短歌はどうでしょうか。
自分のお気に入りの自作短歌を部屋に飾れますか?
おそらく飾れない人が殆どでしょう。誰かに見られたら「ドン引き」されるかもしれませんし、あんまりポジティブな印象は持たれないかもしれません。匿名性の箍を外せば、本質は恐ろしい程に露わとなる訳です。
しかしマグレがないということは真の実力が試されるわけで、本当に良い作品は賞をとったか取らなかったなんて問題にならない次元で評価をされるものだと思っています。
多く作るのも結構、沢山投稿するのも結構ですが、いかんせん多くの人が自分の作った歌をわずか十首も暗唱できないのです。心には何も刻まれていないのが実状です。
もしも短歌道というものがあるならば、「言葉」でも「調べ」でも「韻律」でも「技巧」でも「修辞」でもなくまずは「心」だと思いますが、今はただただ流れに任せてあてのない浮遊をしているプレジャーボートという例えになるでしょうか。ひとたび規制や嵐が来ようものならひとたまりもなく砕け散ってしまうでしょう。
まずは繰り返し暗唱できる自分の歌を一首、また一首と積み重ねてゆくことこそが大切です。お風呂でもトイレでも台所でも布団の中でも、落ち着いて暗唱できる歌を心に刻みながら歩むことが出来れば、短歌道を踏み外すことはないのかもしれません。
2020年11月15日
短歌 ミルク