一般的な紙は7回から9回程度しか折りたためないそうです。
薄い紙でも何度も何度も畳んで厚みが増せば、その元になった木のように硬度をもってしまうのかもしれません。積み重ねるということはその素材の性質すらも大きく変えてしまうほど、重要な意味をもっているということなのでしょうか。
歌にはどうも作った人の人生や生き方や経験や体験が折りたたまれているようで、そう思えば納得できることに数多く出会います。
プロアマに限らず現実に起こっていることとして挙げられるのは、
「数多く積み重なって作られた歌」の歌意を「あまり積み重なっていない歌」の作者は永遠に理解出来ないということがあると思います。
それが数値で著されるものならば、10の人の歌を9以下の人は永遠に理解できないということになるでしょう。以前に山登りに例えたこともありますが、10まで登った人には1から10までの景色が見えますが、9までしか登っていない人には10の景色は絶対に見えません。
これは年齢や技術や技巧や人気や実績の例えではありません。
その人が短歌に何を込めているのかという心の姿に他なりません。何を大切にし、何を描こうとしているのか、それに傾けた熱量だと言えるかもしれません。
しかし他者の歌意が理解できないことを、人それぞれのものの見方だと諦めてしまう人が多く存在します。ライトヴァースやニューウエイブのそれっぽい短歌ならともかく、真剣に作られた歌の歌意でさえ、読者任せの作歌だと決めつけて深く読み解くことを止めてしまう考え方が浸透しつつあります。
一次元の作歌や二次元の作歌しかできない人達の上には、三次元、四次元の作歌をする人達がいます。上の次元の作者にはすべてが面白いように見えていますが、下の次元からは上の次元は存在すら認識できないのです。そのくらいの違いがあると感じています。
あるバラエティ番組のトークの中で、キャストの一人が
「電信柱という電信柱・・・」という言葉を使って話をされていました。
おバカなキャラクターを演じられているキャストだったということもあるかもしれませんが、ベテランMCは「ネタが飛んできた」と言わんばかりにギャグへと落とし込み、笑いを取ろうとしました。多分「でんしんばしら という名前の電信柱」と言おうとしたというチョイスを瞬間的にしたのだと思います。
しかし、この言い方には本来の正しい意味があると思いますし、話そうとしたキャストも多分本来の意味において使おうとしたと判断ができました。
その後の話の繋がりから、「片っ端から」という意味においてこのような言い方をされたと私は理解できました。おバカキャラを活かそうとしたベテランの配慮だと言えなくもないですが、視聴率のためとはいえ、正しい表現をねじ曲げてまで笑いにしていることに少々の嫌悪感と見えていない人の愚かさを感じた出来事でした。マスコミによる都合の良い所、悪い所に対する切り取り報道と同じような匂いがして、節度の無さがだけが印象付けられました。
リフレインすることの旨さやスケール感を大きな懐で感じられなかったベテランMCも、
「笑いという笑いをかっさらった」と言われて悪い気はしないでしょうに、気付かぬうちに時代や世代とのギャップは広がっていたのかもしれません。
聞き流すことと聞き流さないことには大きな違いがあり、ともすれば元に戻れない分かれ道になることすらあるのです。
丁寧に言葉を扱うことの大切さ、しっかり読み解いて理解することの意義を、折り重ねた紙は教えてくれているような気がします。
2020年12月6日
短歌 ミルク