「短歌で気を付けていること」というページに定期的にアクセスがあります。
初心者でもあった私自身への戒めも兼ねて、気が付くことを書き連ねただけのものですが、同様に作歌に対して何をどうすればという疑問を持つ人が少なからずいらっしゃるのだなと分析しております。記事の投稿から少し時間も経ちましたので、もう少し具体的に気を付けなければならないことを書いてみたいと思います。
これらはあくまで私の独断と偏見による限られた意見ですが、そのような見方、取り組み方もあるのだという参考程度にお考え下さい。
A・旧仮名遣いや旧字体は使用しない
目で見て読んだ時と耳で聞いてみた時のギャップの大きさが、無意識にバイアスを掛けてしまっていることの証です。音で聞いてみれば旧仮名文字で表示することが如何に無意味なことかがよく解ります。雰囲気に頼ったり、見てくれに意識をそらしたり、歌の心からは離れた我欲の醜さを感じます。なぜ短歌に歌という字がついているのか、歌とは文字に左右されるようなものなのか、とても大切な根っこの問題があるように思います。
古典は古典としてその時代感覚や趣を味わうものだと思いますが、現代に無理やりその時代感覚を持ってきてしまうのには反対です。旧字体と同様に、無意識の古典バイアスが掛かってしまうからです。もっともっと歌そのものを公平に評価して味わう姿勢が求められなければ、現代短歌に生き残る術はありません。これは「趣」などというものと全く別次元のお話だと思います。
・しまう → しまふ
・ほほえんでいる → ほほゑんでゐる
・ような → やうな
・だろう → だらう
・ふるわす → ふるはす
・あじさい → あじさゐ
・やわらかさ → やはらかさ
声で、音で聞いてみて下さい。わざわざ表記する意味はどこにあるのでしょうか。
B・「い」抜き、「ら」抜き言葉を使用しない
ただ音数を揃えるためだけに短縮言葉を使うケースがとても多く、見るに堪えない状況です。大規模な短歌大会や歌会、有名な歌人が選歌や選評をするケースでも、滅多にこの「い」抜きや「ら」抜き言葉についてコメントすることはありません。麻痺しています。
心の描いたものを表すのですから、本来は出来るだけ丁寧な言葉を使わなければなりません。日本語の豊富な語彙はそのためにあると言っても過言ではありません。ただ単に語数や字数、音数を削るために安易に「い」抜きや「ら」抜きを使用するのは言語道断です。
音が余っても破調の方がまだ支持できます。
やれ若者感覚だの、ポップスの歌詞に使われているだの、言い訳ばかりを耳にしますが、私には安易なチョイスとしてしか、その意図が感じられません。そこに至るまでにどれだけの考察がされたのか、甚だ疑問です。カジュアルで口語短歌にはピッタリだという声も多くありますが、短歌は歌謡曲の歌詞ではありません。許容されているからといって言葉を磨くことを怠ってしまっては元も子もないと思います。
・していた、している → してる、してた
・見ていた、見ている → 見てる、見てた
・来ていた、来ている → 来てた、来てる
・食べられる、見られる → 食べれる、見れる
・起きられる、寝られる → 起きれる、寝れる
・信じられる → 信じれる
※(しゃべる、しゃべれる)は「ら」抜きではありません。
すこし極端に例を作ってみました。改作までのプロセスが短歌にとって最も重要な時間だと考えています。
悪い例 ● 石蹴りをしてる少年見てたのは春が来てると信じれるから
改作例 ● 転がった先にはやがて春だろう冬を背にして君の蹴る石
2020年5月14日
短歌 ミルク