青春や恋愛を歌にする時も、友情や感謝を歌にする時も、私の呼ぶ「君」という呼称は、「すべての君」に対して使われるものです。決して誰か一人のために使われているものではありません。そもそも、個人のごくごく個人的な事象や経験を歌に詠むつもりもありませんし、それは不粋でわかりにくいことだと、再三にわたり述べさせて頂いております。
例え数人にしか読まれない歌であっても、私には歌に対する切なる願いがあります。
「言葉よ光であれ」という祈りにも似た願いです。
それが根底にあるからこそ、短歌の神髄を見極めたいという欲求に駆られるのです。
もう言葉が光にはなれないと見限ってしまえば、明日にも短歌を止めてしまうでしょう。
「短歌」という取っつき易さ、のぞき込み易さ、お試しのし易さ、といったハードルの低さは、愚かな人も惹きつけますが、同時に本当に言葉の力を信じて言葉に何らかの救いの力を期待する、優れた感性の持ち主も惹きつけます。
もしもそんな人が「怒り」や「哀しみ」や「憎しみ」の気持ちに苛まれて、短歌に逃げ込んで来たとき、一体短歌には何ができるのだろう、どんな力が短歌にはあるのだろうかという、私自身の問いかけがそのまま、短歌に対する先の言葉になっているのです。
愚痴のように綴られた歌にも、自意識の甘えの歌と、真に心が発する呻き声の歌には明確な違いがあります。前者はスルーしますが、後者はきちんと読んで「よいね」を付けます。
「それを心の叫びだと認識している人もいるのですよ」ということを、知っていて欲しいからです。知っておいてくれるだけでよいのです。大げさに何ができるとか、わかり合えるとか、そんな未知の期待をしているわけではありません。
本来は、何か眩しい程の言葉や歌があって、そんな言葉や歌を目にしたら途端に心が洗われるような感慨に包まれて救われる気持ちになればよいのかもしれませんが、現実はそんな夢物語のような空間ではありません。ああでもない、こうでもないと必死に言葉を選んで並び替えて、それでも想いの1割も伝わらないことばかりです。
だからといって言葉の力を信じている人がいなくなってしまったら、すべてはそこで潰えてしまいます。少し囓った程度の私でさえ言葉や短歌の持つポテンシャルを強く感じるのですから、きっと多くの人達がその力を信じて歌に取り組んでいるのだと思いたいですし、短歌は必ずその想いに答えてくれると信じています。
幼い頃、魚の小骨が喉に刺さった時、ご飯の小さな塊を飲み込めばよいと教わりました。
一見余計に喉に引っかかって、逆ではないかと思われる対処(ショック療法)だと思いますが、短歌にその役割を見いだせないかと、ずっと考えておりました。
心に引っかかっている棘を、言葉や短歌というご飯で取り除いてしまう。
直接何かのアドバイスやカウンセリングをするのではなく、二次的に作用するような媒体として、短歌は機能しないのだろうかという期待が芽生え始めました。
そこから短歌の敷居の低さを利用して、じんわりと心に働きかけることが歌によってできないものかと考えたことから、言葉への探求が始まりました。
歌はどんどんお説教のようになってきましたが、もうそんなことは気にしてはいられませんでした。「趣」や「風情」はとても大切なものかもしれませんが、私の第一目的は、「引っかかった棘を取り除くこと」な訳ですから、呑気なことに時間や思考を割くわけにはいきません。
どうすれば棘はご飯に引っかかってくれるのかということだけを、ただひたすらに考えている時間が多くなりました。
考えれば考えるほど、「言葉遊び」や「おざなりな言葉遣い」が許せなくなってきました。
言葉を信じて、丁寧に読み、噛み砕かない人も嫌いになりましたし、自分とか歌の評価などもはやどうでもよいものだと思えました。私にとって「ご飯」になれないもの、ならないものに意味や価値など微塵もありません。
「悟り」「理」「真理」「歌意」と、くどいほどに訴えるのは、このような考えがあってのことなのです。
いつか「光」となる言葉や歌が見えてくるまで、そのことを信じて愚直に勉強を続けたいと思っています。信じることを止めてしまったら、きっと腹の足しにもならない短歌など吹き飛んでしまうでしょうから。
2020年4月29日
短歌 ミルク