当初から説教じみた私の短歌には、説法のように理や摂理にも似た表現や言い回しが多く出て参ります。時に自分の経験や、二人称での相手の行動や、比喩を用いた第三者の心情という手段を使って歌の中に取り入れるのですが、一つだけ気をつけていることがあります。
それはその事柄がたとえ自分の意見や経験や悟りだったとしても、自分という存在のない状態でも成立する事柄であるかということです。
自分の・・・が、自分だけの・・・になっていないのか。
※・・・には沢山のことが当てはまると思います。(経験)(喜び)(哀しみ)(怒り)(憎しみ)(愛情)(友情)(友愛)(尊敬)(侮蔑)などなど・・・。
もしかしたら、自分という要素を取り除いたら成立しないことなのではないか、という疑問を常に投げかけながら作るようにしています。
もちろん、自分の日記のように自分の一里塚として作られる歌もあるでしょう。
しかしそれらを理解できるのは、家族などごく一部の人達に限定されてしまいます。
何が何だか解らない歌は、他人にとってもはや歌ではありません。いくら想像力が豊かな人にでも限界はありますから、他者の目に晒したところでスルーされることを覚悟しなければなりません。
再三にわたってお話をさせていただいている「自分から離れる」「自分ごとから離れる」という作歌姿勢は、あまりにも自分に近づきすぎている意識から距離を置き、どこかのだれかの心象風景としてでも成立するような、広くて深い想像の余白を心がけるということに他なりません。自分ごとから離れられない人のブランコは支点がすぐ近くにあり、とても吊された長さが短いブランコです。小さくしか振れず、描ける世界は小さな世界です。
歌意が一点に固定されていればいるほど、自分ごとで描ける世界は小さくなります。
だから歌意を曖昧にして、短いブランコだと悟られないようにする歌人や歌が氾濫しているのだと感じています。
「自分には特別な感慨があった。」ことを言い訳に、傷病辛苦や出産、性別特有のことなどが詠われますが、結局は他人ごとであるが故に、誰しもが思いを巡らせることができるような「心の一里塚」としての歌でなければ、大抵は深く印象には残らないものです。
どんなに言葉の感覚が優れた人でも、31文字でその人の人生を余すところなく表すことなど不可能ですから、その都度作った人の情感に思いを寄せるのではなく、歌意が描いている景色によりフォーカスしてゆくべきだろうと思います。
読者によってはそれを「曖昧」とか「難しい」とか「漠然」と見てしまうかも知れませんが、歌意が定まっているならば、堂々としていればよいと思います。
生々しさは生ものなので味わえるのは一瞬です。脆い。
だから私たちは短歌という玉の中に、自分を必死に閉じ込めようとしているのかもしれません。
短歌を作る人は、それがシャボン玉なのか、ガラス玉なのか、水晶の玉なのか、見極めなければならないのでしょう。まさしくそれが歌の寿命ともいうべき、賞味期限を指し示すものだからなのです。
2020年4月27日
短歌 ミルク