今回は「自分ごと」と双璧をなしている現代短歌病のひとつ、落差症候群についてのお話です。
・ 比喩や表現が極端になりすぎてファンタジーになっていないかを確認する
ごく普通でつまらない日常やつまらない人間からは衝撃的な事など起こるはずもなく、もうファンタジーを創造することでしか、飛躍や落差を生み出せないことが原因だと思います。極端な経験や単語、ありもしない創造や空想、とにかく落差や飛躍に似せた事だけを詠っていれば誰かが拾ってくれるとでも考えているのでしょうか、プロの歌人にもこの手の歌がとても多いので何とも情けない限りです。
少々の違いはあったとしても、人の思考や想像力の及ぶ範囲は似たような所に落ち着きます。あまりにも自分の世界、自分だけの世界、自分だけが酔ってしまっている世界のことを綴れば、違和感を覚えるのは当然のことです。どんなにその世界が極彩色で素晴らしい世界に見えたとしても、その描き方を間違えれば、ただの「変な人」「変な考え」になってしまうだけです。あまりにも薄っぺらい落差や比喩に頼りすぎていて、比較することや置き換えて考えることの意義をなおざりにしてしまっています。純粋な感動であればあるほど、人の感覚に近い場所にあるものです。
このような傾向が続くような作歌姿勢は、すぐにでも是正すべきだと思っています。
・百、千、万、百万、億など、数と単位を持ち出す比喩
・偉人や著名人、歴史上の人物、著作を持ち出す比喩
・ドラマやアニメの登場人物、設定を持ち出す比喩
・辞書を引かなければならないような公式、専門用語、理論、病名などを持ち出す比喩
たとえば一粒の涙を(水たまり)とか(小さき湖)という所まではついてゆけますが、(涙の海)とか(哀しみの海)と言ってしまうと途端に嘘っぽく感じてしまいます。盛って作られた感じが否めないのです。さらにこの海で泳ぐとか溺れるとか言い出してしまうと、もう物語感が溢れだしてしまって収まりがつきません。
短歌に限らず多くの歌や文章に触れれば触れるほど、言葉に込められた嘘や誇張が目についてしまいます。たとえそれが、大人のふりをするとか、悪びれてみるとか、不良の真似事をするという他愛ない動機であったとしても、その違いに気付いてしまうのです。
私はコンビニ短歌と揶揄して呼んでいますが、コンビニの買い物カゴの中に(爪切り)と(缶コーヒー)と(冷凍食品)と(ぬりえ)が一緒に入っているかのように、一見繋がりのないものを一緒にしてしまうことで歌を作ろうとする輩が多すぎると思っています。手軽に舵を切りすぎて、ただカオスな状況を演出すれば歌になると思っている愚かなプロ歌人の悪影響でしょう。経験や思索や表現がとても薄っぺらいので、もう空想と落差に頼るしか方法がないと自ら告白しているようなものです。
そのような短歌は決して心に刻まれることはありません。
一昨日の食事のメニューが思い出せないように、インスタントでただ通り過ぎてゆく短歌に心は立ち止まりません。スマートフォンの中の写真に例えるなら、すぐさまスワイプでさようならという感じでしょうか。どうせ作るのなら、ズームして、ズームして、一旦元に戻して、またズームして、更に写真に写っていない外側の景色も気になるというくらいの写真でありたいものです。
尖っていることを演出しているのに、刺さらない。それは出来合いの刃物で切った断面だからに他なりません。真剣に短歌や言葉と向き合っている人は、日々一生懸命研ぐことを怠らないものです。切れ味が異なるのは当然なのかもしれません。
2020年5月17日
短歌 ミルク