前回に引き続き、大切だと思われる要素を中心に書きたいと思います。
このブログでは手を変え品を変え何度も話してきた内容なのですが、自覚しなければいつまで経っても直せない事柄ばかりです。まずは自分で気付くことからのスタートだと思いますので、繰り返しになったとしても何度でも何度でもお話します。
C・ 自分にしか解らない「自分ごと」を歌にしない
自己顕示欲が旺盛な人が日々数え切れない程の写真や呟きを投稿したとしても、フォローの数だけ他人が見てくれたり読んでくれたりする訳ではありません。芸能人でも無い限り、ただの一般人の写真や呟きには何の興味も抱かないのが一般的な感覚であり、何が起ころうと自分には関係のない出来事だと思います。短歌であってもそれは同様です。自分がどれほど感動したとしても、余程の力がなければそれを短歌に込めることはできないでしょう。写真でもなく、歓声でもない三十一文字の短歌が他人の心を揺さぶるためには、それ相応の修行が必要だと思っています。
常に自分の目線で語られた日記やツイートのようなつぶやき短歌もどきは、社交辞令化した年賀葉書やその裏面の家族写真のように、「ふぅーん」とやり過ごされてしまう最たるものだと思います。
自分にとっての特別も、他人にとっては「必要のないこと」であり、わざわざ「目を向ける」ということをする必要のない出来事です。まるで投稿中毒と例える方がふさわしいかのような現代の「自意識過剰症候群」は、非常に脆く危うい心を形成してしまいます。
「プロではないのだから、何も求められてはいないのです。」
発信、発信とまるで自分が放送局にでもなったように投稿に躍起になる人がいますが、需要の無いところに供給してもダブついてしまうだけで、結局価値はマイナスになってしまいます。マイナスになって投稿に価値がなくなると今度は自分が勝手に傷ついて病んでしまいます。
短歌が気軽に投稿できるサイトを見てしまうと、自分にも作れるのではないかという考えが湧いてきます。考えが湧いてくると、実際に五七五七七に言葉を当てはめ始めます。簡単に作れるからといって、誰しもに深い感慨をもたらすような経験や蓄積があるわけではありませんから、早速ネタに困ります。ネタに困るとどうするのか、それは自分の身の回り、自分自身の周りの事を手っ取り早く歌にしようとします。自分や家族、学校、友人、両親や会社、小さな自分の繋がりの中の世界で、歌になるもの歌になるようなことを探し、当てはめてゆくのです。
このような状態の時には短歌を作る欲求がすべてにおいて上回っていまから、読者の事や歌がもたらす影響などについては無頓着になってしまっています。いわば自分勝手な歌しか作れない状態です。愚痴を綴ったり、憤懣をぶつけたり、自分にしか解らないことのみで綴られることが殆どです。読んでいても全く理解のできない、想像の及ばない、とても個人的な呟きに付き合わされているという感じがします。
読む方としても一回や二回ならまだしも、これが続くとなればもう苦痛以外の何者でもありません。興味をそそらないものに関しては、「ゴミが貯まっている」程度の認識しか持たないのが普通です。いいねの応酬があったとしても、もう目的が短歌を作る、読むではなくて、いいねの応酬に変わってしまっているでしょう。
ありきたりの日常も磨かれたレンズや誰も向けたことのない角度で見ることで、常に新しい発見と気付きを孕んでいます。当たり前のことを当たり前に詠っても短歌にはなりませんが、当たり前の出来事が普段見せない側面にライトを当てて見せることが、短歌には求められていると思います。
「自分ごと」という自分中心の視点は、もう他の角度、他の見方に柔軟に移ることができない程、自意識にしがみついてしまっているのです。
「自分にはこう見えた」ではなくて「このようには見えないでしょうか、いかがですか?」という姿勢が大切です。自分を他の誰かに置き換えても矛盾しないこと、誰にでも起こりうること、そうでありながら誰も気づいていないこと、そのような光景を頭に浮かべて作歌することが重要です。
様々なサイトを覗いてみても、ほぼ9割近くがこの「自分ごと」の短歌ですし、残念ながら多くの人がその呪縛に気付いてさえいません。「自分ごと」を詠むのか、「自分も含めた景色」を詠むのかということは、短歌とつぶやきを分ける大きな分かれ道となります。
つぶやきの道に慣れてしまったら、もう短歌の道に戻ることはできないかもしれません。
相当な困難を覚悟しなければ、自意識の悪魔は袖を離してはくれないからです。
本当に短歌が好きで心の中に留めておきたいと考えているのなら、つぶやきはスルーしてきちんと詠まれた短歌を一つでも多く目にしておきたいものです。
2020年5月16日
短歌 ミルク