感情と発見をごちゃ混ぜにして同じようなものだと考えている人があまりにも多く、もう一度それぞれが言葉になるプロセスを考えなければならないと思っています。
もちろん、感情はつぶやき、発見は短歌という結論ありきの考察です。
そもそも人は利便のおかげで、想像を絶するスピードで日々退化を続けています。
肉体的な衰えもそうですが、体の感覚器や思考、感情までも何かに頼りっきりのインスタントなものになりつつあります。
私は近年のこの状況を作り出したアイテムは次の3つだと思っています。
1・自動車
2・デジタルカメラ
3・スマートフォン
自動車はいわずもがなです。確かに生活にはとても大切な道具ですが、これほど身体機能と認知感覚機能を要求されるものはありません。同様に二輪車がありますが、その普及や実際の活用現場に高齢者が極端に少ないことが、自動車のハードルの低さを表していると思います。
デジタルカメラが自動車の次に身体機能を超越したガジェットとなりました。可視限界を超えて肉眼で追えない世界を撮影できるようになって、その性能に素人が群がりました。
写真は一瞬の芸術ですが、もう性能に任せて一瞬に集中することもなくなったので、センスや卓越した感覚が必要なくなりました。素人がまぐれで高画質の写真を撮れることで、写真コンテストのレベルは著しく下がったと思っています。
スマートフォンはパソコンと電話機の代わりとして、万人にインターネット環境をもたらしました。ググれば何でも調べられる状態は画期的なものですが、インターネットはそもそも「切断」を許さない世界です。「切断」というとネガティブなことが頭に浮かぶかも知れませんが、人は様々なものやことを「切断」することで生きているものです。常にある種の緊張状態を要求する現代は「一人」でいることをも許さない、「鬱陶しい」くらいの面倒な世界です。
「ハードルが低い」「まぐれでもできる」「繋がっていなければならない」
短歌に限らず、いろいろな物事が置かれている状況と全く一致します。
これらがもたらす恩恵の犠牲は何でしょうか。
環境的な付加などは別として、人が敏感と鈍感の使い道をことごとく間違ってしまうという現代病のような症状を産み出したことが挙げられると思います。
いちいち一個人のどうでもよいことに感動したと思えば、「切断(繋がっていない)」人のことは死んだ人も同然のような振る舞いをして、空気を読むことには敏感でも、痛みにはまるで鈍感であったり、とにかく感覚が狂ってしまっているようです。
「切断」(死んだ)と思われないように、皆自己アピールに必死です。
このことが過剰にのさばる自意識に餌を与え、ガソリンを注ぎました。
感情が動いたことの大半は「出来事」によってもたらされたものです。
自らが能動的にそうしようと思うようなことではなく受動的なもの、そこに感動はあるかもしれませんが、発見(気付き)はありません。
アルキメデスが湯船から溢れるお湯を見た時「(ヘウレーカ)わかった!」と叫んだことは、果たして感動でしょうか。誰かに受動的に与えられたものなのでしょうか。
発見(気付き)とは自分の行動によって能動的にもたらされるものです。
「流体中の物質は流体を押しのけたものと同じ重さの浮力を受ける」
というアルキメデスの原理は、そのまま人が気付きを得るために何をしなければならないのかを指し示しています。
社会の中で、自分という人間が存在しているということは、自分一人分が社会の何かを押しのけているということに他なりません。この押しのけたことによって生じた浮力を様々な形で受け取ることこそが「発見(気付き)」なのです。
気付きの元は自分には無い。自分が押しのけたものの中にこそあるのです。それを見つけること、そこから学ぶ事、そこに想いを巡らせることが短歌の役割であると思います。
感情は自意識です。喜怒哀楽を詠うのではなく、喜怒哀楽の源泉を詠う、そういった強い想いがなければ、いつまでたっても短歌はつぶやきのままで成長しないでしょう。
それは数学の答えではありません。自分が押しのけた世界はこうだったのかという気付きそのものです。人それぞれで異なる、とても幅広い感じ方ができると思います。誰かが「月が綺麗ですね」と言えば、何百人もが同様に「月が綺麗ですね」と詠うような、浅はかなものでは決してありません。量も質も異なるそれぞれの押しのけたものを積極的に感じることこそが、私は短歌の進むべき道であると強く信じています。
これだけ自意識の呪縛が強いとなれば、短歌の道はもう立派な修行です。
自らの心がけこそが自らを成長させる糧となりますから、緩める訳にはいかないのです。
2020年5月6日
短歌 ミルク