早いもので明日はもうクリスマスイヴ、長らく投稿をお休みさせていただいておりました。
かねてから病気療養中の父親(アルコール依存症の)が突然亡くなり、慌ただしい年の瀬を迎えております。
かかりつけ医やら葬儀業者やらとの折衝、親類や友人知人などへの挨拶など、時間に追われる中で淡々と進めてきた作業も一段落し、やっとパソコンの前に向かえる時間が取れました。
人はいつか死んでしまうし、その過程を生業としている人達にはどこかで「慣れ」というものが芽生えているのかもしれませんが、いつもながら葬儀業者の度を過ぎた非礼には、つい大きな声をあげたくなるものです。二言目には「故人様とご遺族様に寄り添った・・・」というキャッチフレーズが浮かんで来ますが、結局彼らが見ているのはお金の顔ばかりという在り様で、最初から最後までトラブル続きで、あげくの果てには頼んでもいないものを請求に勝手に追加する詐欺まがいの行為に及びました。おそらくはそのようなことも日常茶飯事なのでしょう。長く続いてきたというだけで、戒名が値段でランク付けされてしまったり、やたらと心付け(チップ)を要求してきたり、冥土でどうだとか、供養がどうだとか、見てもいない物や事で脅しのように金銭をせしめることが、本当に正しいことなのか、ぜひ仏様に直接聞いてみたいものです。
グレーで、アンタッチャブルと噂される業界、業種だと腹をくくって大きな顔をしていると、坊主も含めて痛い目に遭うことになるでしょう。
今まであまり当事者になることがなかったのでやらなかったのですが、葬儀社の○○万円プランの中にあるものや、おおよそ葬儀や火葬で必要になるものを自力で用意することができるのかできないのか、ちょっと調べてみました。するとビックリ、お坊さんも含めほぼ全て通販サイトで調達可能であることがわかりました。(しかも格安)
霊柩運送業の許可があれば、だれでも簡単に開業できることもわかりました。
もはや旧来の葬祭業はオワコンと言ってもいいくらいに立ち遅れているのです。
だからコロナ禍のような突発的な事態にも対応しきれず、ただただ昔ながらの火事場泥棒と揶揄されるような仕事しかできないのでしょう。
心を込めて真っ当に仕事をしている会社しか選ばれなくなることが想像できてはいないまま、淘汰されていくのだと思います。
「心を込める」とは一体どういうことなのでしょうか。
しばらく考えていた私は、遠い昔に作られたもみの木だけの飾りのないクリスマスツリーの絵を見たときに一つの答えが浮かんで来ました。
「見えない火を灯す」
キリスト教三位一体の象徴である立派なもみの木の三角形のシルエットの先に、ベツレヘムの星が輝くという実際の風景がそこにあったなら、きっと誰もがキラキラの飾りなど吊す必要はないと思うに違いありません。人は見えない灯りや見えない飾りをその木に点したり吊り下げたりすることができる生き物です。心の中で思い巡らせて初めて見えてくるものにこそ、真に温かみのある感情や高潔な美しさが宿るのでしょう。
堂々と真っ直ぐに立っているもみの木は、何も飾りがなかったとしても立派なツリーの風格を漂わせているはずです。私たちは心の中に火を灯して飾り付ければよいのだと思いますが、今という時間と、見えている物だけにしか興味のない現代人には到底理解できない事なのかもしれません。
短歌にも似たようなことが言えるかもしれません。
私が目指す平易な言葉での一首自立はまさしく飾りのないもみの木のようでもあります。
誰が見てもそれがツリーだとわかるような、逞しい歌をいつかは作ってみたいものです。
・ 心には見えない小さな火が灯り時に目頭は熱くなる
冷たい人、冷たい態度、冷遇、冷淡、冷酷、冷評など、
その温度は微かだと思いますが、確かに感じるものなのでしょう。
2021年12月23日
短歌 ミルク