高齢者の運転による痛ましい死亡事故のニュースが後を絶ちません。
これだけ現代人が間違った方向に流されているということを言い続けても、折角焼け野原から手にした中流意識や獲得した利権を「そう易々とは手放してなるまい」という頑なな心に突き刺さる戒めを、誰しもが簡単に見過ごしてはいけないと思います。
軽自動車と言えども、自分を合わせれば約1tの重量があります。
自らの意思でそれを移動させるのならば、1tの鉄の塊の持つポテンシャルを知らねばなりません。私が事あるごとに「利便」には「相応のリスク」が付きまとうと言っているのは、あまりにもそのことを蔑ろに考える人が多すぎるからです。
実体験が無くても一般的な想像力があれば、おおよその結果は思い描けると思います。
手が自由に使えるのであれば、卵にどの程度の衝撃が加われば割れるのか、誰でも簡単に理解することができるでしょう。
卵だからわかって、自動車だからわからないという言い訳は通用しません。
つい先日も97歳の高齢者が死傷事故を起こしたニュースが流れました。
地元でも有名な歌人の方だそうですが、たいして凄い歌を詠んでいた訳でもないのに、無駄に忖度されもてはやされると傲りが身についてしまうことの最たる例だと思います。
果たして本当に自分の年齢や体力や感性や実力と、真摯に向き合ったことがあるのでしょうか?。
私は無いと思います。
「自分と真摯に向き合う」という「箍(たが)」を填められるのは、自分自身ただ一人です。
箍のない桶や樽には、ものは貯められません。
そんな人に一体何が想像できると言うのでしょうか、
決して聖人君子として生きろということではありません。
朽ちること、傷つくこと、脆いこと、病んでゆくことを知り、そして理解し、受け入れた上で、それでもなお磨き続けることが出来るものは誰にでもあります。
より深く、より幅広く洞察する心を培わなければ、長く生きている意味などありません。
聡明な人は高齢になればなるほど、よりきつく箍を締め込んでいきます。
権威や立場や権力や名声など、高い所から低いところへ自らの意思で降りてゆくことができるのも、知能を持った人間ならではの能力なのですから。
歌壇の重鎮たちは揃って、「感性は年を取らない」とか「年齢を重ねてこそ詠める歌がある」とか、形だけは恰好のよい御託を並べていますが、歌は歌人のすべてを表しています。
歌と向き合うことは、まさに自分自身に向き合うことに直結しているのです。
・ハリボテは先生と呼ばれ顧みぬ悪しき心に魔が突き刺さる
自覚していると豪語する者が最も自分を省みない。傲りとはツケを悪魔に払わせていることを忘れてはならない。
2022年11月23日
短歌 ミルク