短歌を作るというプロセスも、心身がナイーヴな時には大きなストレスを伴います。
見たことや感じた事が思うように言葉にならない時間は長く、無意味な沈黙に支配されたようにネガティブに捉えられがちです。
どう考えても読むことの方が簡単だと思われている方が大多数だと思いますが、実際には読むことの方がストレスを伴うことが多いと感じています。
あまり深い意味を追わず、第一印象のままスクロールしてそのまま過ぎ去ってしまえば、それはストレスとは無縁のひとときになるでしょう。それでも中には、少し戻って読み返してみたい歌などもあります。解らないと思ったことをすぐに確認したいという気持ちもあるかもしれません。読み返そうと思う歌には、何かしら引っかかるものがあったということでしょう。二度三度読み返すうちにストンと心に落ちるものがある歌、なかなか作歌の心情や経験の情景が見えてこない歌、様々な居場所へ心は旅することになります。
旅先でよく似た景色や建物、普段目にするような珍しくもなんともない人々を目にしたしたら、「ここは旅先か、はたまた地元か」と思うほど勘違いをしてしまうかもしれませんし、それならば旅に行かずに家で居た方が良いじゃないかと考えたくなるかもしれません。
普通の出来事を普通につぶやいているだけの短歌は、このような心の旅の対象になりにくいと思っています。かといってお金を掛けて豪華で豪快な体験をしたからといって、何でも歌になるとも思ってはいません。
「水を飲む」という行為、経験ひとつをとってみても、様々な状況が考えられます。
別に、サスペンスドラマのようなストーリーを作れとか探せとか、そんな要求をしているわけではありません。
その人がどんな場所でどんな状況で水を飲んでいるのか、周囲も含めて歌の中に匂わせなければなりません。そこではじめて「水」は意味を持つことになります。
1・水を飲んだ
2・喉が渇いたから水を飲んだ
3・走ってきたので喉が渇いて水を飲んだ
4・遅れまいと走ってきたので喉が渇いて水を飲んだ
5・待ち合わせに遅れまいと走ってきたので喉が渇いて水を飲んだ
6・デートの待ち合わせに遅れまいと走ってきたので喉が渇いて水を飲んだ
7・初めてのデートの待ち合わせに遅れまいと走ってきたので喉が渇いて水を飲んだ
このようになって初めて「短歌」の出番となるわけですが、せいぜい歌になり得るのは、ギリギリ5番からというところでしょうか。1~4はただのつぶやきです。
7に至って初めて、水は味を持つかもしれません。初デートのスタートに間に合ったなら、とても甘く感じられたかもしれませんし、間に合わなかったらそれこそ、味のないただの液体に感じられたかもしれません。その違いをすくって詠うのが短歌の役割なのだと思います。
1から4までをいくら短歌チックに詠ったとしても、やはりつぶやきです。
賢明な方はもうお解りだと思いますが、そのような歌は読むことさえも苦痛になってきます。決して誘われることのない旅行のプランだけを見せられているようなものです。
悲しいかな、上達すればする程この選歌眼が鋭く厳しくなってきてしまうので、上達すればするほど読むことの痛みは増してきます。
何か二次的な効能でもあるのならば一時的な苦みも辛抱できますが、癒やしどころか苦痛を伴い、更に後味も悪い読後感しか生まないのであればもう読む必要はありません。
痛みを伴わずに読める歌には、必ず小さな旅の要素が秘められているはずです。
とても身近で旅なんて呼べない距離かもしれませんが、それでも心が一度も訪れたことのない景色を見せてくれる旅です。距離とかスケールとか、そんな尺度ではありません。
素人でも何百何千と歌を目にしていれば、きっと各々が感じることがあるはずです。
それは癒やしをもたらすのか、あるいは痛みをもたらすのか。
それは短歌と呼べるものなのか、あるいは短歌のようなつぶやきなのか。
人工知能に分けられる時までに自分自身で振り分けることができないなら、もう歌人と名乗ることも許されないかもしれません。いつでも人は試されているのです。
2020年3月24日
短歌 ミルク