短歌を作ったり読んだりし始めて最初はとても楽しかったのに、今では同じような歌を読むと辟易することもあったり、「これらは本当に歌なのか?」とあきれてしまったり、とにかく同じ方向へ振れてしまいやすいのは良くも悪くも日本人の特性のようで、なかなか違った切り口を目にすることは少なくなりました。前衛芸術のようにハメを外せばウケると思っている輩、いつまでも中二病のように一つの作風にしがみついている輩、理由もよく解らず古い歌を奉る風潮、本当に言葉は心の想いを綴り伝えているのでしょうか。短歌は一体何者で、どんな役割を持っているのか、無くても生きてはいけるかもしれないけれど、手元で愛される理由はなんなのか、もう少し真面目に考える人が沢山いてもいいと思うのは私だけでしょうか。
・基本は三十一文字を守るが。破調になっても丁寧な言葉を心がける。
・流行言葉に飛びつかない。言葉に振り回されない。
・何度も何度も読み返す。音で理解できなければダメ。
・多作しても多投しない。ゴミを撒き散らさない。
・使い古された言葉は使わない。同じモチーフにはすぐに手垢がついてしまう。
・他の歌人達と同じ題材(モチーフ)を極力扱わない。固有名詞もほどほどに。
・旧仮名でごまかさず、新かなで作歌する。耳で聞く歌に旧仮名は必要なし。
・「い」抜き、「ら」抜き、「う」抜き(ようにをよにと言わない)抜き言葉を使わない。
・歳をとっただけの傷病辛苦は避ける。もう読み飽きたでしょう。
・ウケは狙わない。(迎合しない)よいねは何の指標でもない。
・助詞を入替えてよくよく考えてみる。光を当てる角度は慎重に。
・自分が自分がという自己中心から離れる。あなたのことはあなたしか解らない。
・視点を柔軟に設定する。人だけが歌を詠えるという傲慢を越えて考える。
・言葉の成り立ちや意味は丁寧に調べて吟味する。ノリやニュアンスだけで使わない。
・他人の評に惑わされない。特にポンコツ結社の選者様など。
・短歌は鼻歌ではない、呟きでもない、暇つぶしのゲームではない。
・気付き(小さな悟り)を必ず意識して作る。
切り取る断面には必ず気付きが隠れていることを忘れない。
やはり権威が必要なのでしょうか、権威が押さえつけなければダラダラと短歌気取りのゲームは続くのでしょうか、そんな短歌界に未来などないと思いますし、もっと素直に、真面目に、正確に、歌を読み解き評価する仕組みも必要ではないかと思っています。それは現代の時間に追われるような生活スタイルには、合っていないのかもしれません。だから水道の蛇口から垂れ流されるような歌ばかりになってしまったのだと思います。しかし現在のとても似通った方向からだけの評価基準には危うさを感じています。多様性ということが免罪符になり、あまりにもぼんやりとし過ぎているように思うのです。間口の広さを許容の広さと勘違いして何でもありにしてしまうことはとても残念なことだと思います。
私は三十一文字以外に明確な別のルールがあってもよいと思いますし、そのルールに添った流儀や宗派のようなものがもっと出てきても良いのではないかとも思います。
じっくりと時間を掛けて味わうことの出来る短歌、長い時間の波風に耐えうる短歌、誰かの心にしっかりと根を張れるような短歌、そんな短歌の可能性を信じて、自分のペースで諦めずに取り組んでゆきたいと思っています。
これまで短歌に取り組んで最も痛切に理解出来たのは、一首を本当に読み解くには相当に時間がかかるということでした。だからこそ一首一首と真剣に向き合わなければいけないと思いました。
2019年11月28日
短歌 ミルク