揚げ物などにこれでもかと言わんばかりに付いてくるので、少し苦手でしたが、ダイエットの友としてはとても有効で、朝はキャベツのサラダからスタートすることも多くなりました。
多くの野菜の中であまり漢字の呼び名に馴染みがないのもキャベツの特徴です。
それもそのはずで、甘藍(かんらん)とか玉菜(たまな)という響きには、実際のキャベツからはほど遠い印象しか浮かんできません。もともと観賞用で入って来たことも影響していると思いますが、あてた漢字も、読み方も、イメージも、何一つとして実物にそぐわなかったのでしょう。人の感覚とは時に残酷なものです。まるでキャベツ自体もそのことをわかっていたかのようです。青椒と呼ばれて中華料理では馴染みのあるピーマンとも違い、今はカタカナのキャベツが最も支持された言葉となりました。
そのもの自体が言葉を受け入れず、駆逐してしまったかのような出来事はこれだけなのでしょうか。
他にもたくさんあるような気がします。
名前に限らず、本当にその姿やその景色に当てはまらないことやそぐわないことは日常的にあると思います。言葉をずさんに使えば使うほど、気づかずに通り過ぎているかもしれません。過剰でも不足でも、心の許容を超えて受け入れられないことがあることを知って、慎重に言葉を使わなければなりません。
大げさに言えば、キャベツの例のように適切でない言葉や表現は駆逐されるのかもしれません。
とても強い力を内に秘めているからこそ、誤った言葉の蹂躙を解こうとする逆の力も働くのでしょう。
何気ない物の名前、表現の仕方、素通りしてしまうのはもったいない課題を、山積みのキャベツは教えてくれています。
●甘藍も玉菜も弾き我が名こそキャベツと名乗る 縛られずあり
決して言葉に蹂躙されなかったキャベツの芯が硬いのは当たり前。
2019年11月29日
短歌 ミルク