動画配信のサイトなどを見ると、体に障がいをお持ちの方やご病気で入院や通院、治療をしながら配信されている方、自宅で療養しながら発信しておられる方など、様々な配信者がおられます。
物理的な距離や時間や動作に左右されず、機器で不便を補うことで配信や配信に伴う経済活動に参加できることは、ボーダーレスやジェンダーレスの進んだ現代社会ならではの良い変化であると思います。
何でも軽々しく言葉にしてしまう、私を含めた健常で何も不自由ではない一般人にとって、何かの不自由を伴った生活を強いられている人達の考えや言葉は、特別な意味を持つ悟りや導きに満ちているものです。発明の源泉が不便であるように、真の心の豊かさの源泉は不自由さであると思っています。
枯渇して初めて、ひとすくいの水が甘いことを知るようなものです。
もうすくって飲むこともしない現代人が本当の水の甘さに到達できるのか、甚だ疑問に思うのは、何の不自由もなくだらだらと、ただ短歌もどきの落書きを投稿し続ける人達ばかりが増えている今の状況をみれば当たり前かもしれません。
光は優れていて、希望や命の源泉のように言う方もおられますが、それでは目が不自由な人達に、なんの希望もないのかというと、それは違っていると思います。
本当に大切なのは、光を無くしてしまっても見えている世界のことだと思います。
はたして点字になったとして、伝わる短歌がどの程度あるのでしょうか。
難しい言い回しや旧仮名や古典の表現や、難解な言葉に左右されない純粋な歌がいくつあるというのでしょうか。
あまりにも普通の自分、一般的な感覚、健常であることに甘えて過ぎてはいないでしょうか。感覚への過剰な依存で、言葉が選ばれ歌が作られてはないでしょうか。
真に読んだ人の心に届くには一体どのような言葉がふさわしいのか、真摯に、真剣に考えることが今こそ必要です。
水は一点に集中すれば鉄をも裁ち切りますが、広く放たれればただ緩く流れるだけです。
プロ野球があるから草野球があるのです。このままでは全員草野球になってしまいかねない短歌の世界を、プロの歌人達はどう考えているのでしょうか。
野放しになったままの短歌は今、大きな分水嶺の手前にあるような気がしています。
2020年3月6日
短歌 ミルク