平安時代や鎌倉時代においても識字率は極端に低く、限られた人の間でしか文字が道具として機能していませんでした。さらに昔となると、本当にごく限られた人達の間でしか文字そのものが使われていなかったということになります。
和歌と呼ばれるものが、ごく限られた世界に留まっているのはこのためだと推察します。
一般庶民にまで降りてきていない文化というわけですから、非常に狭い了見に偏っているわけです。未だ口頭伝承の文化も多数が存続していることを見れば、音による理解がとても大切であり、文字は後からついてくるものだと言うことが解ります。
識字する能力に乏しかったとしても、物を音で示されればそれがどんな物かを音にすることはできます。文法や様式やそんな知識がなかったとしても、その状態や情景が音で示されれば、それを真似ることはできます。
庶民の短歌は最初、このような所からスタートしたのではないかと想像をしてみると、如何に口語の音が大切かが解ります。
識字率がほぼ100%となった現代において、口語も文語もなんらそのポテンシャルに違いがないかのように語られることもありますが、そもそも文字と識字をベースにしている文語や旧仮名遣いと口語では、大きな違いがあると思わざるを得ません。
物の名前などの由来を調べる機会に頻繁に恵まれますが、その多くが呼び方が崩れたり、省略されたり、組み合わさったり、一部誤って伝わったりして現在の名前に落ち着いています。始まりはすべて口から発せられた言葉なのです。
未だに口語短歌のことをとやかく言う方や、旧仮名でなければ・・などと宣う旧人類を多く見かけますが、問いたいのです。
「その歌はラジオで伝わりますか?」と。
歌と名前がついて、ラジオで伝わらないとなるともう致命的です。この時点で旧仮名遣いを選択する意味がありません。
また、文語表現についても、現代においてそんな言葉をコミュニケーションや道具として使っている人は殆ど居ません。居ないと言うことは伝わらないということです。
そんな口語短歌のポテンシャルを蔑ろにしないで短歌を作らなければなりません。
よく「」カギ括弧などを使うことを嫌がったり、ダメだという人の話を聞くことがありますが、私は全然そうは思いません。ラジオで伝わります。何の問題もありません。
ダメなのは過剰なルビ遣いです。元の言葉と全く違う音のルビを振ったりすることがありますが、これは伝わりません。精々遊びで使うところに留めなければなりません。
またかねてから指摘している「い」抜きや「ら」抜き言葉も、伝わりますが最小限に止めておかなければなりません。そもそも「い」や「ら」は削ぎ落とす対象ではありません。
十分に他の表現を模索するべきです。
時々、ラジオで俳句や短歌を聞く機会がありますが、とても良いトレーニングになります。
歌そのものがストレートに響かなければ、聞き流す頭の中で繰り返すこともままなりません。
作歌に迷われている方は、「ラジオで自分の歌が読まれたら」ということを意識するべきだと思います。
ですから小難しい表現や言葉を使うことは避けたいのです。簡単な言葉、平易な表現、そして口語で丁寧に、何度も何度も繰り返し読んで、音でも十分伝わる歌を目指すことこそ、王道であり第一歩なのだと思います。
2020年3月1日
短歌 ミルク