同じ人が作った料理でも、必ずいつもと同じ味になるとは限りません。
小学校の家庭科の先生の「料理が作業にならないように」という言葉は、まさにその本質をとらえた言葉でした。心や気持ちを丁寧に込めるということは、小さな影響かもしれませんが、現象の端々として見えたり感じたりすることで表面化するものなのでしょう。
実際には何を食べたとしても一旦お腹は一杯になり、生きる為の燃料になります。おいしいとかおいしくないとか、栄養バランスが良いとか悪いとか、そんなことを気にしなければ、インスタント食品を食べ続けても食欲は満たせます。
しかしすべての食べ物は命が形を変えた恵みです。
「いただきます」の言葉はおいしく調理してくれた人から、食材へ、食材を育ててくれた人や自然へと向かい、感謝を持って恵みを受け取るという宣言にも聞こえます。
「いただきます」の声や意味が理解出来ないであろう食材に向けて、それは人が出来る最低限のことなのかもしれません。
心を込めて行っていることが作業だと言われてしまうことはたいへん悲しいことですが、真に心が込められているのかがすぐに明らかになってしまう食事という行為は、一瞬で料理もどきを見破るとても辛辣なものです。
食べ物の味や感覚というものは、すぐに都合のよい嘘を並べられるほど飼い慣らされてはおらず、とてもピュアな状態だからだと思います。頭で補正を掛けて言葉で補うからこそ、スムーズに味覚が伝達されると思いますし、少々味が違ったとしてもその違和感を押さえ込めているのでしょう。
短歌を作る工程も、この料理と作業によく似たもののような気がします。
どんな気持ちがこめられているのか、どんな景色がひろがったのか、それを丁寧に描いている短歌は読後もすこぶる気持ちの良いものですが、いわゆる作業でしか作られなかった短歌は、まるで味のように一瞬で体が拒否反応を起こします。
これが続くと終いには「読みたくない」という所まで到達するほどの嫌悪感です。
短歌はつぶやきではない、作歌は作業でもない。心を込めて料理をつくるくらいの厳しい修行が必要なのでしょう。星がいくつあっても、立地がよくても、雰囲気が最高でも、料理を見たり味わえば心は解ります。
未だそこまで辿りつけない素人だとしても、不味い料理は自分以外には食べさせたくないものです。
● 作業だと言われぬように丁寧に餃子を閉じる不機嫌な日も
閉じていなければ破裂する、作業はいつかロボットに置き換わるだろう。
2020年3月9日
短歌 ミルク