小さな疑問の種を蒔いたつもりのブログスタートから半年以上が過ぎ、未だ芽も出ていない状態であることは認識しておりますが、長い長い旅であることは明白で、焦っても仕方ないとの自覚を胸にゆっくりと進めて参りました。
いつもお読みいただいている方々には、あらためて感謝と共に駄文、拙作のお詫びを申し上げたいと思います。
高尚な短歌解説や批評、学術的な和歌の解説などが多い中で、私のように学が無いものはなかなか短歌の導きに触れることすら叶わないと思っておりました。しかしながら、言葉というものは貴賤を区別せず、誰にも同様に問いかけて参ります。たまたま私はその声を聴いてしまったのだと思います。
短歌を始められた方の中には、私と同じように言葉の声を聴いた方もたくさんいらっしゃるのではないかと思い、自分の中にポコポコと湧いてくるハテナの原因を共有できないものかと考え始めたことも大きな動機となりました。
SNSを殆ど使っていない私ですらも、リアルニュースやネットニュース、様々なSNSで流される情報や言葉の信憑性に、大いに疑問を抱く一年となりました。果たして正確な情報、偏見のない言葉、バイアスの掛かっていない論理が行き交っているのだろうかという疑念は確信に変わりその信頼性が大きく損なわれているように、短歌の世界においても言葉や表現の劣化が激しく進んでおり、このままでは信頼できないただの呟きに落ちぶれてしまうのではという危機感に晒されているようで、せめて自分だけでもという想いで書いた文章ばかりになりました。
ただの素人が心配するようなことではないかもしれませんが、私の聴いた言葉の声は明らかに「行き過ぎた言葉の氾濫を食い止めろ」と聞こえるものでした。
学者やプロの歌人でもなく、結社にすら所属していないど素人の私にできることと言えば、短歌と短歌の導く世界のことを少しでも解りやすく簡単な自分の言葉で書き綴ることくらいしかありませんでした。
「考えることを止めたくはない」と強く意識したきっかけがあります。
大好きな吉田美奈子さんの歌の歌詞の一部に、猛烈に探索欲求を刺激されたからです。
「午後」というとても短いけれど美しい歌があります。この歌の最後のフレーズが、いつも私を言葉の探求に引き戻すトリガーになっています。出会って何十年も経った今でも、その意味を追い続けています。それほどに言葉の問いかける謎は深いのだと思います。
そして、それは人に産まれたからこその幸せなことだとも感じました。
私の中では、どなたの短歌にも多くの著名な和歌などにも、このフレーズ、この歌を超える感慨を及ぼすものは未だありません。
こんなゴール(それでもゴールではないと美奈子さんはおっしゃると思いますが)があるのなら、その道を歩いてみたいと強く思いました。それが短歌という登山道を私が選んで上り始めたきっかけとなっています。
広大なネット空間の中では殆どゴミのような私のブログを見つけ、また読んで頂いていることに深く感謝申し上げますと共に、皆様のご健康とご多幸をお祈りしながら、来たるべき年にも言葉の問いかけがあらんことを期待してご挨拶に代えさせていただきます。
ありがとうございました。
※「午後」においても(普通)が詠われています。とてもとても深い、考えさせられる(普通)です。皆さんはどうお感じになられるでしょうか。
2019年12月31日
短歌 ミルク