《仏様と和尚様と説法》
読み手に対してスローガンや川柳ではなく、警鐘の役割を持つ短歌が必要だと思っています。マスコミまでもが忖度や偏重の報道を行う中で、短い言葉で深く広く事象をとらえることのできる短歌の力が試されていると感じています。そもそも、そこまで深い意図があって始まったものでは無いと思いますが、言葉の重みを知り、その力を知り、組み立てることが出来る人ならば、何も植えられていない所へ気づきの種を蒔くことができるのではないかと思います。
自分の目指す短歌の世界を思い描いてみると、よく似た関係性が現実世界にもあることがわかります。サブタイトルに書いた(仏様と和尚と説法)の事です。
・仏様(世の中のことわり、真理)
・和尚様(ことわりや真理を現実世界の事象に置き換えてわかりやすく変換する)
・説法(仏様の真理を和尚がかみ砕いて檀家や小僧に伝える)
よくよく考えてみれば、私の作歌のプロセスと全く同じであることに気付きます。
和尚様は、言葉で聞いている人々をねじ伏せるでもなく、後は各々で考えよというスタンスでお話をされています。確固として動じない理の前で、如何に揺れ動く煩悩と付き合い収めていくのか、経典の中の短い言葉を使って戒めることの大切さを説かれているのだと思います。
作歌のプロセスにおいて得られた気づきは、経典の中の言葉のように内に仕舞われるのではなく、誰かの導きによって現実世界に放たれるべきものだと思います。独自の切り口によって表層化した断面(気づき)は、気づいた人に翻訳されることを待っているのです。
それは自然の営みのように、何気ない形で漏れ伝えられてゆくことを望んでいるかの如く、静かで大人しいものです。気づかない人にとっては見えない世界、語られることのない悟りを、気づいた人はなんとしても形にして伝え残さなければなりません。普段は物言わぬ自然や目には見えない存在が、人に託したメッセージであるような気がしてなりません。
なぜこんなセンチメンタルな感情を人は持ってしまったのか、食べて着て寝て、生きていく為には一見必要ではないことに思える感傷が、唯一自然に抗う力をもってしまった人に与えられた宿命なのではないか、戒めや理の伝道者になるべく備えられた能力なのではないかと思えるのです。だから説法(短歌)をする為には、修行しなければならないのでしょう。徳を積むように言葉を吟味し、想いを巡らせ、理に目を凝らす日々の鍛錬を経て、和尚様のようにやさしく翻訳できるのだと思います。
趣の世界を極める為に茶人がいるように、理の世界を極める為に和尚様がいて、歌を作る人は茶人や和尚様のように、磨き、そぎ落とし、極めなければならないことがあるということを、短歌に向き合う人達は、少なからず胸に刻んでおかなければならないと思いました。
2019年10月21日
短歌 ミルク