自分が小さい頃はまだ時計すら子供には遠い存在で、何時に帰れとも言われないまま、遅くまで外で遊ぶ毎日でした。ボール遊びやゴムで飛ばす飛行機、おもちゃのブーメランや石蹴り、水切り、ベーゴマ、メンコなど、TVゲームがないから当然と言えば当然ですが屋外ですることばかりでした。夕飯に遅れて叱られるなんて毎日で、でも他の大人に叱られた記憶なんて一つも無くて、随分ゆったり時間は流れていたのだなと思います。
自然も含めて、住んでいる街の風景や匂い、風の吹き方や影の向き、道路の広さや田畑の色味まで、子供には直感的に受け取れる情報ばかりで、それは忘れることの方が難しいくらい深く記憶に刻まれています。
何物も子供を縛ることなど無かったと思います。それは時代そのものがまるで子供のように急成長をしていたからだと思います。子供が次から次へと遊びを発明してゆくように、世の中は目まぐるしく発展してゆきました。ノビノビと大らかに遊ぶ子供達の姿に、明るい未来の光を見たのかもしれませんし、子供達にだけ見えるものや感じた事に、大人ではできない可能性を感じていたのかもしれません。とにかく大人も自然も懐が大きくて、微細な出来事に一喜一憂していなかった事だけは、よく覚えています。
縛り付けて制約したり抑制したり、確かにそれが必要な時もあるかもしれません。
しかし輪ゴムでさえ、時間が経てば切れたり溶けたりしてしまいます。束ねる場所やほどくタイミングで、対象を傷つけてしまうことがあるということを知って、力は行使しなければなりません。現代の校則などには、あまり教訓として活かされていないようですが、思考までも型にはめかねない程行き過ぎているのなら、ほどいてあげることも必要だと感じています。
・ボール追い皆で引きずる夕焼けに夜のインクが漏れ出してきた
僕たちだけにボールは見えた、僕たちだけに夜は足踏みをしてくれた。
2019年10月24日
短歌 ミルク