《わが家のカレーライス》
スーパーで売られているごく普通の野菜やお肉、カレールーを使って作られたカレーも、それぞれの家庭のそれぞれの味があります。何百回、何千回食べたとしても決して忘れることのない舌と記憶に刻まれた記録、まるでありがたい経文のようでもあります。
短歌においても私の目指す所は、わが家のカレーライスのような歌を作ることと決めております。言葉の鍛錬ととらえるならば究極は自慢のカレーでお店を出して独立して・・・などと考えがちですが、それはその道のプロでなければ出来ない領域だと思います。基本をしっかり学び、道具の使い方を習得し、免状を得て初めてプロとして対価を頂けるものが作れるということなのでしょう。
作者本人の生き方云々は別として、作歌の心持ちとして参考にしているのは俵万智さんの短歌です。本人の半径1.5mくらいの範囲でしか感じられない匂いや息づかい、温度までを察知して表現されていることに気づかされることが多くあります。
決して奇を衒うことなく、自分の出来る料理を自分の出来る範囲で作ることの大切さが彼女の等身大の姿を映し出しているが故に、読者は大きな抵抗感なくその世界を感じることができるのだと思います。
・新作のカレールー(新語や流行語)が手に入ったから作ってみる。
・変わったスパイス(表現方法)を見つけたので使ってみる。
・流行っているから、映えるから(破調や不定形詩)激辛にチャレンジ。
・珍しいから(奇を衒う言葉、落差のある言葉)グリーンカレーに挑戦する。
・高そうな食器(古語や旧かな表現)に盛りつけてみる。
・アイディアを思いついたから(多作乱投)毎日カレーを作って食べてもらう。
・冷凍(読み手まかせの作歌)しておけばいつでも食べられるでしょ。
作歌の心に、こんなことが起こっていないでしょうか?
プロや相当の技量の持ち主ならば、これらはすべてクリアすることもできるでしょう。
クリアできるということは、味ですべてを納得させることが出来るということです。
私を含めた素人には到底無理な話です。
でも、現代の短歌に集う人々はこれをやってしまう人が殆どです。
それは行き過ぎた承認欲求や簡単になった道具のせいかもしれません。
私は自分の歌を読み返して、ラジオ体操でジャンプするくらいの、ほんの少しカカトが字面から離れてまた着地する衝撃程度の安堵感を覚えます。心がコトンと地に落ちて安心するのです。あんなこと、こんなこと、あんな気持ちや、こんな気持ちもあったなぁと、日記のように繰りながら何度も読める歌は、決して不快な圧力を感じないものです。
それはわが家の味であり、私のつくった普通のカレーライスだからだと思います。
ほぼ同じ材料で作られるのに家ごとに味が異なっているなんて、まるで短歌と同じです。
ほぼ同じ言葉で綴られているのに作者ごとに異なった見方、異なった世界観が存在します。
何も特別なことをする必要はなく、いつもの晩ご飯を作る姿勢で取り組むことが大切だと感じています。
母の目が甘い辛いを見極める中庸だから中辛じゃない
ちなみにわが家の隠し味は干しエビと固形のフォンドボーです。
2019年10月17日
短歌 ミルク