勉強が嫌いな私は大抵授業の時には本を読んでいるか、考え事をしているかどちらかでした。授業の内容なのか読書メモなのかわからないことを書いては消して、時間つぶしをしていたのかも知れません。こなれてきた教師はそつなく試験の為の授業を積み重ねていきますが、若い教師は生徒と一緒になって学ぶ事のその先にあるものを追いかけているような気がした時代、学校が荒れてもいた時代です。教師という立場に誇りを持って、点数に縛られない教育を追いかけている人も少なからずいらっしゃいました。
いくつかの心に残っている言葉があります。
「教科書や黒板の文字の中には無い興味をもてるものを見つけて欲しい。」
「ほんとうはここ(黒板)に字を書く必要なんてない。白墨はただの道標。」
「ノートに書いていないことを覚えておいてくれたほうがうれしいんだよ。」
「不思議だろ。黒い板に白いチョーク、白いノートに黒い鉛筆、同じ事を学ぼうとしているのにね。」
まるでことわざのような言葉ばかりで、真面目さの中から本音も垣間見える所に、妙な人間臭さを感じたものです。
睡魔が導く闇へ落ちる子供達を救おうとか、導こうとか、そんな格好良さを追い求めてもいない一探求者としての純粋さが、そんな事を言わせたのかもしれません。ほんの少しだけ前を歩いたけれど、全部正解な道でも全部はずれの道でもなかったことを言わんとしていたような言葉でもあります。
暗闇に光を見いだすことは必要だけれど、光ばかりの世界では一筋の黒い道すらも見失うことがあると、教えられたような気がしています。輪廻のようにまた、巡る太極の印のように、実は黒板とノートはいつまでも追いかけっこをしているのかもしれません。チョークの音と鉛筆の音は単に時間をすり減らしているのではなく、互いの尻尾が見えているから追いかけているように思えてならない、そんな秋の夜長です。
・黒板は闇の手前で問うていて目印としての白墨がある
教師(闇の中に光を見いだすもの)と生徒(光の中から道を探し出すもの)はよく似たことをしている。太陰太極のように。
2019年11月18日
短歌 ミルク