小さな団地に住んでいた頃の家の手伝いと言えば、お風呂焚きが多かったと思います。
一軒一軒に小さなボイラーのようなものと煙突があって、石炭や木片を入れて焚いていました。途中からオガライトなるおがくずの塊のような材料が出てきてとても楽になったのですが、とにかく種火から石炭に火が移るまでが難しくて、付きっきりでいなくてはいけませんでした。最初は燃えやすい新聞紙に火をつけて、それから小さな木くずとか木片に炎を育ててゆくのですが、材料を入れなくても入れすぎてもダメ、空気をやたらと吹き込んでも吹き込まなくてもダメといった具合に、その加減が一定ではありません。燃やすことは簡単だけれど、石炭に燃え移るのには、その何倍も時間も手間も掛かるように感じました。頑ななものというのは、ちょっとやそっとでは侵されたりしないものです。
特に冬場に手伝いをすることが多かったので、自分としてはなるべく手間を掛けたくなかったのですが、本当に慣れるまでは時間が掛かったことだけをよく覚えています。
ちなみにお手伝いの手順はこんな感じです。
1・前日の燃えかす(灰)をきれいに掻き出して捨てる。
2・ボイラーに石炭を平たく少し入れる。(上から下に風が通る程度隙間を空けて)
3・少し大きめの木片や紙などを入れて火を付ける。
4・とにかく扇いで炎を大きくし、燃えやすいものを追加する。
5・石炭に火が付いたら、風の通り道を確保しながら徐々に石炭を追加する。
6・家族が全員入り終えたら、消火する。火が消えていることを確認して終わり。
今から考えると、とても簡単そうなことなのですが、きちんとやっていなかったのでしょう、大ざっぱにやっていては実はこなせない事ばかりなのです。
前日の灰を掃除し忘れていたり、はじめに石炭を入れすぎていたり、燃材が湿気ていたり、空気を吹き込むことをサボったり、せっかくの種火を消してしまったりと、スンナリと進んだことは数えるくらいしかありません。
ゆっくり昔の出来事を振り返るようになって、こんな子供の頃の思い出さえも人生の教訓として捉えることが出来るとしみじみ感じています。
頑なな心(石炭)が燃えるには、種火と燃材と酸素が必要です。おまけに、わだかまり(前日の灰)が残っていては、少しの火を起こすことも困難になります。自分の心や誰かの心に火を灯すとき、欠け落ちる事無く手順通りにできているだろうか、ずさんにしたり、サボったりしていないだろうか、燃えればいいと考えずに、長く炎を持たせようとしているだろうか、などと考えるようになりました。
きっと人の心は石炭よりも複雑で簡単にはいかないでしょう。
ボタン一つでお湯が出る時代だからこそ、風呂焚きの事をあらためて考える意味があるような気がします。複雑な思考をする生き物だからこそ、一つ一つの作業や動作に欠けてはならない深い意味があるのだと思います。そのことを理解した上で言葉を使ったり、表現したりしなければ、長く火を燃やし続けることは叶わないのです。
短歌に向き合うということが、よりこの事を鮮明にしてくれたような気がしています。誰にも叱られないとしてもサボらずに手順をこなせる作歌姿勢でいたいと思っています。
● 吹き込むは息吹なる風 一陣の焔を君に届けんがため
自分が酸素を取り込んでいるから、吹き込んだ息では燃えづらい。新鮮な酸素は自分の外にある。
2019年11月13日
短歌 ミルク