どんなに言葉が尽くされていても、実感に遠く及ばないことはたくさんあります。
特に感覚と言われるものは、未だ難しい表現の先にあるものとして、伝えることの難易度が高いものの象徴です。
生死に関わる食べ物はもちろんですが、直接生命に危険が及ぶことのない他愛のないものでも、私たち人間はやたらと匂いを確認したりします。幼い頃だけかと思えばそうでもなく、きっと死ぬまでずっと確認し続けるのでしょう。こんなに情報が溢れ、差し迫る命の危機がない世の中でも、見知らぬものへの違和感が無くなることはありません。
一体何を確かめようとしているのでしょうか。
悲しいかな、インターネットがあっても匂いだけは伝達することができませんし、それには見えないことも影響しているかもしれません。
匂いを嗅いでもらえれば一発で伝わることも、言葉や画像や音声だけでは、不十分かつ的外れな伝わり方になってしまうでしょう。何か、短歌を作って読んでもらうことに似ているところがあるようです。
心が何を感じて何を確かめようとしているのか、それを第三者に伝えることは、匂いを伝える如く難しいことです。なにせ経験していたとしても、焼きたてのパンを見る度に匂いを嗅いでみるような人ばかりに、読んで頂かなくてはなりません。それほどに、個々の人格が推し量る内容は、てんでバラバラで基準も単位もありません。
もしも作った歌が匂いなどない無機質なプラスチックのようなものだったとしたら、
きっと同じような歌を見たとたんに、もう匂いたくはない、匂わなくてもわかっている、といった感想をもってしまうでしょう。それは歌にとってはとても悲しいことです。
何かいつもと違う、今までと違う、何なのだろうという違和感を感じて、その上で歌の中の(匂い)に気付いてもらうことが重要だと思いますし、歌そのものも(自分の匂い)を持って作られるものであって欲しいのです。言葉の当てはめや誰かの真似ごとでは、決して自分の匂いを持たないでしょうし、日常の呟き程度では匂っても誰にも気付かれないでしょう。
美しい花々のようにとまではいかなくても、きっと自分しか発することのできない香りを持っているはずです。特別なことをしなくても、人は敏感に違和感を察知する生き物ですから、香れば必ず気付かれるのです。ただそのためには、日常で違和感に気付く心と、違和感を言葉に乗せる感性と、異なる違和感の匂いを嗅いで確かめる動作が必要になります。
新しくても古くても、汚れていてもいなくても、高価であってもそうでなくても、きっと私たちは違和感に気付いています。気付いたら、確かめる。
短歌が長い時間を超えて伝わってきたのは、それだけ多くの人の(確かめる動作)があったからだと思います。何度も何度も読まれて香る、そんな歌作りに憧れています。
・真新し物は匂いで確かめて靴を履いても本能はある
人は本来伝わるべき匂いを、誤魔化したり遮ったりしていないのだろうか。
2019年11月11日
短歌 ミルク