本来の目的と実際の行動が乖離してしまうことが多くなってきました。
成人の日もそのような流れの中にあると言えます。
18から働き始めた私は、サービス業であったことから休日はほぼ働いている状態でした。
一般の人の曜日感覚やスケジュールの立て方とは異なり、平日に堂々と休めることは新鮮であり、しばらくは脳天気にそれを満喫していたような気がします。
当然成人式も、友人の結婚式も、お正月やお盆の集まりも参加できないわけですが、それはそれで新しい経験や出会いが埋めてくれるほど、とても充実した成人の年だったと記憶しています。
私と同様に休日も休まず働いている新成人はたくさんいらっっしゃるでしょう。コロナ禍の中で危険に身を晒して働く医療現場の人、接触や関わりの減る中でサービスの在り方を模索する人、また災害などの現場で救援に汗を流す人など、若人とは言え本当に頭の下がる思いがします。成人式に浮かれている一団との違いは、一体どこから生まれるのでしょうか。
テレワークテレワークと叫ばれる中で、大雪が降れば自衛隊員の皆さんがスコップを持って現地で懸命に雪かきを行っています。厳寒の中で漁をする人、雪害から畑の作物を守る人、切れた電線を繋いで生活を守ろうとする人など、あまりにも現業からは遠い人達のかけ声のような「テレワーク」に何の重みも感じられないのは、浅はかな机上の計算だけが見え透いているからかもしれません。
大雪で何千台も自動車が立ち往生しても、ドローンはひとかきの除雪もできず、食料を届けることにすら使われていません。片方で無人タクシーなどと戯言を並べる割には、おもちゃ以下の実用性しかありません。コンピュータといくらにらめっこをしたとしても、米粒一つも作れません。スタイルよりも意味のある行動が求められています。
大都会の慢心は大きなリスクを成長させてしまい、独りよがりの人間ばかりが暮らす社会へと変えてしまいました。大量消費からの逆算でしか社会が形成できず、地方との格差(思考の格差)は決定的になっていると思います。東京で一日百個売れる商品があるとするならば、地方では精々一日一個か二個程度しか売れません。それでも地方においてはそれが普通でそれが日常なのです。移動に極端な不便が強いられたとしても、それを常として生活しています。必要最小限の定義そのものが、大きくかけ離れているのです。
過剰のカーブが反転する時、都会はその人口を養えなくなるでしょう。
自立できないことを今こそ学び、歪な人口分布を見直さなければ都市は瞬く間に崩壊してしまうでしょう。
地方の人達が触れ合う時、それはすべてに意味が込められています。元々がソーシャルディスタンスだからです。意味のないふれあいなど、殆どありません。触れ合えない距離や不便さを常に持ち必要最小限で生きているからこそ、リスクに対する考えや行動が違っているのだと思います。
スマホの中だけで完結する世界は、明らかに異常な世界です。
自然はそれを許さないでしょう。それなりの覚悟が必要だと思っています。
・ リセットもリブートもないめくり捨つ暦の裏に似て白き雪
積もるのはいらだちか、それとも微かな学びだろうか。
2021年1月11日
短歌 ミルク