昨年作った歌を読み返してみたり、雑誌や愛読書をめくってみたり、約4年となる短歌との関わりの中で自分自身がどう変化してきたのかを考える為のお正月になりました。
一昨年から少しずつ仕事が減少していたことに加え、昨年初頭からのコロナ禍、家族の病気や入院と、頭を抱えることから離れられない日々の中で、唯一心を落ち着かせ人らしさを保てたのは、紛れもなく美しい言葉が側にあったからに他なりません。
俵万智さんの歌は絆創膏のように手元にあり、
島秋人さんの歌はかさぶたを取るかのように痛みを伴い、
塔和子さんの詩はよく効く軟膏のように心に染み入ります。
一年に一度の年賀状だけのやりとりを多くの人が煩わしいと思い始めている中で、マメに手書きで身辺状況を知らせてくれる人や、見守っていてくれる人、元気づけてくれる人など、気持ちが込められた一文字一文字を目にすると、挨拶を越えた繋がりを感じずには居られません。
傷は大半を時間が癒やしてくれるものですが、言葉でしか塞げない傷口もあるような気がして、何度もハガキを読み返してしまいます。
「短歌」はまだまだ全然浸透していません。
「短歌を勉強しています。」なんて書いたのは去年のことですが、予想通りに反応は皆無でした。
せいぜい、プレバトでやってる、ほら、あれ、なーんて言われるのが関の山です。
だからみんなが権威を欲しがるのかもしれません。
○○賞とか○○入選とか、○○佳作とか、苦し紛れのツイートであふれかえっているのはそのせいなのでしょう。
しかし本物の言葉はそんな煩悩を越えて伝わり、強く響きます。
受け取った人の中でまるで激しい化学反応が起きるように新しい何かに変換されてゆくのです。
それは障壁を持たない万能な波のように、時代も環境も越えて未来まで伝わり続けます。
いよいよくだらない短歌モドキから卒業しなければなりません。
短歌を贈り合うような年賀状なら、未来へ残り続けるものでしょう。
「あけおめ」「ことよろ」なら、時代に埋もれてしまうでしょう。
短歌は私に問いかけます。
「言葉という道具を手にしたからには人には果たすべき任務があるんじゃないか?」
2021年1月5日
短歌 ミルク