昭和生まれの性のひとつでオーソドックスなしゃべりの漫才コンビが好みですが、ネタの中にはネタや演出だと解っていても納得しづらいものもあります。
本物の度の入った眼鏡を掛けている相方の眼鏡を取って、ぽーんと遠くへ投げてしまう突っ込みがこれにあたります。
投げられた相方は手さぐりで眼鏡を探すような動作をコミカルに演じ(本当はどこにあるかくらいは見えているのだと思います。)笑いを誘うというものです。きつめの突っ込みやちょっとしたからかいにも思えるこの動作ですが、ファッショングラスや、わざとレンズを抜いた眼鏡ならともかく、少しでも度の入った眼鏡を放り投げるとなると、少し事情が異なるような気がしています。
もしもこれが目が不自由な方の持つ白杖であったならどうでしょうか。
白杖を取り上げて放り投げられるでしょうか。
極論だと思われる方もおられるかもしれませんが、程度の差こそあれ同じ事のように思えます。行動や動作の及ぼすその先への配慮が問われているのではないかと思います。
自分が不便を感じていないからといって、自分の感じたそのままを全てと思い込んでしまうことはとても恐ろしいことです。経験していなくても想像できることが知恵の恩恵であるのに、経験したことしか感じられないのは知恵が全くないことと同じです。
そして経験したことがないことだからこそ、恐れを感じることができるのでしょう。
そんな想像力を目一杯働かせながら生きてゆきたいものです。
白杖と脳みそとの間の凄まじいまでの感覚信号のやりとりに負けないように、微細なことにも感覚を研いで向かう必要があると思います。目には見えない「ウィルス」と戦ってゆく為には尚更そう思えるのです。
・ 少しだけ聞こえづらいと気付けるかマスクのゴムが掛かっただけで
聞き返すことが増えたのは、加齢のせいだけではないらしい。
2021年1月15日
短歌 ミルク