長い間外されずにいた古いタバコ屋さんの看板がそうでしたが、パッと見ではなんと書いてあるかが解らずに首をひねることが希にあります。車で走っていても、前走車の会社名やキャッチフレーズが意味不明な言葉でハテナと思っていた後で、追い越してルームミラーに映った文字を見て「なるほど」と感心することなども、同じような事かもしれません。
鏡を見るたびに思うのは、「いったい他人様には私はどのように見えているのだろう?」という子供のようなナゾナゾ問答ですが、これはなかなか短歌の心に通じる深い真理を抱えています。
短歌も心象に関することなので、もし採点するとしたら芸術が産み出す作品と同じようなプロセスが合っているのかもしれませんが、一つの歌題でもたくさんの解釈や切り口が見いだせるのに、なぜ同じような歌ばかりになるのでしょうか。
少しでも違うものを見れば、異物とみなす独特の「腐った常識観」に囚われてしまった集団の中にいるからなのでしょうか。
(鏡に左右が逆の自分が映るのは当たり前)
こう思うことが左右が反転している自分の姿を受け入れている真の理由なのでしょうか。
ひょっとして当たり前すぎて、真の姿を追い求めるという選択肢を初めから排除していないでしょうか。
短歌を詠む詠まないに関わらず、現代人はおしなべてこの腐った常識観にどっぷりと浸ってしまい、新たな視点を失いつつあります。
自分に起きたことや自分の家庭や家族に起きたことから一向に離れられないのは、心が老いて身動きが取れなくなった状態と同じです。けれど鏡を見ても何も違和感は感じないし、探求しようという意欲も起こりません。安定はしているけれど、言葉はあまり必要ないものかもしれません。
視点のことを説明してくれと言われて、いつも私は(鏡の住人)のことを例に出して話します。鏡の住人はいつも我々とは違う世界を見ていながら、言葉を持ちません。ですから自分達の視点が違うこともわからず、私たちに問いかけることもできません。一方私たちはどうでしょうか。言葉を持ちながら、気づきもしない。それを誰かに問いかけもしない。
もちろん、歌になんてするはずもありません。
鏡の住人が言葉を持てたなら・・・そんな感覚が私を短歌に向かわせる一つのエネルギーでもあります。
かろうじて私の近くにはまだ鏡の住人の気配がありますが、残念なことにもうそれすら感じない人が殆どなのだろうと、年の瀬の床屋の椅子にてしみじみと感じた一日です。
● 床屋にて無限問答 自分とは自分を見た人を見ている人だ
その姿は真にそのものの姿なのだろうか、視点は鏡の中でこそ真実を見つけてくれる。
2019年12月21日
短歌 ミルク