年末の慌ただしい仕事の中で、ふと忘れかけていた素朴な心に出会うことがあります。
きっと誰しもが持っているであろう、人間らしいささやかだけれど豊かな心です。
毎年年始の挨拶でお客様先を訪問する際に、干支が描かれた「干支飴」なるものを少しずつお渡ししています。菓子折のように立派なものではありませんが、縁起物ということで挨拶がてらぶっきらぼうにお渡ししておりました。数個の飴が入った袋が、毎年の干支が描かれた包装紙で包まれており、おまけのような形でその包装紙におみくじのように吉凶が印刷されております。(もちろん外からは見えません)たかだか300円くらいの飴ですので、数個ずつ持っていったからといって何がどうなるというものではありませんし、差しあげた後も特に話題にすることもないと気にも留めておりませんでした。
ところが先日、あるお客様先の事務所の壁に今年の「亥」の描かれた飴の包装紙が2枚、丁寧に拡げられて押しピンで留められていることに気付きました。
数個の中から「大吉」が2枚も出たので縁起がいいと思い留めてあるということでした。
しかも随分前から貼られていたというのです。
私は自分が配っていながら、いかに自分がそのことを軽んじているかを少し悔やみました。
「ただの飴玉だから」「安いおまけのようなものだから」・・・確かに社交辞令でお渡しする時には冗談まじりにそんな言葉を使っていました。渡した3秒後に相手が飴のことを忘れてしまっても、それはそれでいいという心づもりでいたのです。
しかし良い意味で期待は裏切られ、お客様は「大吉」という些細な幸運の種を見逃したり捨てたりせずに育てようとされたのです。今までたくさんの方にお渡ししてきましたが、こんな光景は初めてでした。
たかが飴の包装紙、されど飴の包装紙です。
結果という花は誰にでも見えて、評価しやすく解りやすいけれど、本当に価値のある花は心の中に咲いているということを、この包装紙が教えてくれたような気がしました。
忘れてしまいそうな小さな幸運の種を心に蒔いて静かに育てる気持ちこそが大切で、見えている花(結果)が大きいとか小さいとか、美しいとかそうではないとか、そんなことは重要ではなく、種を蒔いた人の中にしか花は咲かないのだということを、しみじみと伝えてくれているようでした。
他愛もない出来事に種を見つけられる心、やり過ごしてもいいようなことに意味を見いだせる心、そして些細な幸運も丁寧に受け留められる心、そんなものが希薄になっていた自分が少し恥ずかしく思えて、今年一年自分が見過ごしてきた種に想いを馳せて、年末の挨拶を終えた一日でした。
● 幸運の種にゆっくり水をやる花は心の中に咲くもの
結果にどれ程の重みがあるのだろう。心の中の大木は誰にも見えない。
2019年12月27日
短歌 ミルク