自死を選択する人の数が一向に減る様子がありません。一見華やかで、幸せそうに見える世界でもそこに身をおくことでしか理解できない辛さや苦しみが押し寄せてくるのかもしれません。
世界に向かって簡単に「死にたい」と呟いてしまえる時代、ストレスや心の悩みはまるでコンビニのおにぎりのように消費され、余れば容赦なく廃棄されてしまうように、一過性のもののような扱いを受けているような気がしています。本来は呟かなくてもよいであろうどうでもよい事柄を呟いて、それに周りは過剰に反応しています。そんなことばかりだから、本当に声もあげることができない苦しみの中にいる人の悲鳴に、いつまで経っても社会は気付けずにいるのです。一日中スマホを握りしめている人達ばかりが有利な世の中は、公平で正常な世の中ではないと言えるでしょう。
誰かの「たまたま」という偶然を期待して、投稿は大量に、そして過激になるばかりです。
そしてネットの世界は正しい世界とでも言いたげに、過敏にそれらに反応する馬鹿な人々の多いことが世界を歪めていることに、いったいどれだけの人が気付いているのでしょうか。
あまりに過剰すぎて、「等身大の」とか「素の自分」とか、「飾らない」とかまるで普通の言葉が特別な修飾詞に聞こえてしまう程、皆は麻痺してしまっています。
たとえ輝いていてもその光は自分では見えない。
それが理解できないから、「輝こう」という行動ばかりをのさばらせてしまうのでしょう。
自らが光のようだなんて、ナンセンスにも程があります。
人は自らの中にも光源を持っていますが、それは自分以外のものを照らすためのものです。
間違っても自分自身を照らすものではありません。
誰かが誰かの輝きを見つけるように、誰かが誰かの暗闇も見つけなければなりません。
その為には過敏になることや過剰になることから離れなければならないでしょう。特別なものを追えば特別な輝きを目にすることはできるかもしれませんが、それを万人が行う必要はないと思います。
・ 特別は誰かが追うと日常をなぞってみせた阿佐ヶ谷姉妹
桃色のやわらかい空気感は本物であって偽物のように映る。商売っ気のない眼鏡の奥に時流を計る鋭さはある。
2020年10月3日
短歌 ミルク