有名俳人による芸能人のランキング番組で、東大生の詠んだ俳句の一節「シャー芯」※がちょっとした論争のようなものになっていました。
※「シャープペンシルの芯」の略
俳句として認める認めないに始まり、季語を詠むべき俳句にあって単に利便のためだけに短縮された言葉を使うのはどうかといった意見や、他の短縮語や英語はダメなのにこれだけは許されているとか、少しは言葉の事が真面目に語られるきっかけにはなったのかなと思っています。
「シャー芯」をお認めになる主宰も主宰ですが、とにかく知識だけで作られたような俳句に趣もなにもあったものではありません。私ならば短歌においても(使用不可)としておきたい言葉です。これに習って短縮形が認められるのならば、言葉はもはや崩壊寸前と言えるでしょう。自分がそう呼んでいるから、自分の周りもそう呼んでいるから、などという言い訳はとても通用するはずがありません。
字数に制限があるから短縮して使うということ自体は多くの例が蔓延っていますが、なぜこの場合、「替え芯」ではなくて「シャー芯」なのでしょうか。
後に続く言葉は「ストンと・・・」ですが、この「ストン」が説明不足に陥らないように用いられたとも思えますし、そもそも「替え芯」なんて言葉を常用していなかったともとれます。
(シャー芯)→(ストン)○
(替え芯)→(ストン)×
このような思考が行なわれたのかもしれませんが、私には(シャー芯)→(ストン)でも少し違和感が感じられます。ストンの導く質量感が、もう少しだけ重いものを示唆しているように思えてなりません。ストンがあまりにも単純で、少し手垢のついた表現だからなのかもしれません。
「トトン」とか「パララ」とか、「するり」が合わないとも思えないことと、(ス)と(トン)が持ち上げて下に落とすことを表しているように聞こえるからかもしれません。
確かに持ち上げて落とすものではあるけれど、あまりに軽いものなのでそぐわないようなムズムズを感じてしまうのです。
シャー芯が時代的な若さを表していることはとても理解できます。
しかしこれではあまりにも賞味期限の短い、自分に纏わり付いた通り過ぎてゆくものになってしまっています。これを認めざるを得ないところに、俳句の限界を感じます。
十七音と季語と「題」という3つの制約が作者を振り回しているのかもしれません。
そのためにどうしても音数に合う言葉の発見がスタートになりがちです。
季語にしても、題にしても、核になるものが決まってしまえば、もう他は無理やりにでも従わせるしかありません。
この思考を招くこと自体が、俳句の限界点とも言えるでしょう。
もっと放たれなければなりません。
例え制約を無視したとしても、長く生き続ける俳句の方が素晴らしいと思います。
短歌と同様に、今さえよければという風潮で作り続けるならば、同じように崩壊してしまうことは避けられないでしょう。
「省略せずに成り立たないか」ということを真剣に考えなければならない時に来ています。
・ 短縮は圧縮ではない解凍で膨れもしない感動ならば
「あけおめ」や「メリクリ」からはビジネス臭がプンプンしている。キリストも神様も、さぞやお怒りだろう。
2020年10月2日
短歌 ミルク