お年寄りの方の住まいでは、大画面テレビが大音量で見られていることが少なくありません。見えないこと、聞こえないことの原因の一つは確かに老化ですが、ほんとうにそれだけでしょうか?日常の生活習慣や取り組みの中で、目や耳や足腰に良いことをしてきたのでしょうか?
薬が効かないからといって、市販薬からどんどん強いものに変わって、しまいには病院の薬も効かなくなるようなことがあるように、自分が自分を麻痺させているのではないかと疑問に思っています。
消耗してゆく体のパーツをどう使っていくかは、自分自身が決められることです。
ほとんどが取り替えのきかないパーツで出来ている私たちが、できるだけ良いコンディションで長く使っていくためには、大きな負荷もいけませんし、かといって何かでアシストして、わざと過小な負荷で済ませることもいけないと思います。人は怠惰な方向へ、まるで水のように際限なく流れていってしまうからです。足りていることに気付けずに更に欲しがってしまい、結果過大なものでなければ反応もしなくなってしまうのです。
正直長生きをしようとは思いませんが、生きている間は感覚の麻痺を最小限に抑えたいと痛切に感じています。文明=便利=幸福というのは単純過ぎます。ペースメーカーを入れて生きている人が電気自動車に乗ることは大きなリスクとなりますし、スマホがいくら便利でも目が悪くなったら絶景どころではなくなります。目を凝らし、耳をそばだて、肌を出して風の温度を感じることで、何が足りていて何が足りないのかに心を配ることができるのは、まるで短歌の世界と同じであることに、作歌の世界の奥深さを感じています。
派手な偽物の感覚に支配されてしまわないように、自身と日々向き合って生活することが大切だと思い知らされる実家への帰省でした。
半年の帰省の度に音量の数字は上がる韓流ドラマ
慣れは本当に恐ろしい、人は無限に欲しがる生き物。
2019年9月20日
短歌 ミルク