「自分の歌を憶えているか」という一言は結構なキラーフレーズだったらしく、少し思わぬ反響がありました。これは相当な踏み絵のようです。こうなったら、片っ端からこの問いをぶつけてみようと思います。短歌もどきと、歌人もどきをそぎ落とす切り札になるかもしれません。これからが楽しみです。
前に書いたあとがきの文に、「火は詠えるが火にはなれない」と書いたことがあります。
どうも短歌のことを炎やマッチのようだと勘違いをしている方が多くおられますが、思いのほか短歌などというものは無力です。
それでも短歌を追求しようと思うのは何故なのか、そんなことを考えてみました。
ひたすらに自分の日常や自分の経験や学びだけを作歌したとしても、どうも歌のもたらすものが見えて来ないで、淡々と言葉が時間の経過の中を過ぎてゆくように感じてしまいます。少しの間だけでも、引っかからない。心の隅にでも留まっている様子が全くないのです。
なぜ隅にも留まらない歌ばかりになってしまうのかを考えた時、それは他者としても頷ける共感が見えないし、結局のところ何も伝わって来ないからだと考えられます。
詠った世界がとても狭いのか、また感じた事柄が一般的な感情とかけ離れていたのか、とにかく読んでも振り返りたいと感じない、通り過ぎてしまうような歌だったということです。
まだ一撃で爪痕を残すような歌が詠めないアマチュアにとって、何処を目指して短歌を作るかということは、ある意味プロよりも難しいことかもしれません。
難しい問いに考えを巡らせる中で気が付いたことは、もしも人の心が畑の作物や咲いた花だとするならば、水や日差しや肥料などが短歌の役割になるのだろうということでした。
決して種でも花でも実でもなくそれらの周りにどことなく存在して、乾けば水を、細れば肥料を、蔭れば日差しをもたらす、きっと短歌に出来るのはそんなことだろうと思っています。
勘違いをして、種を植えようとか、花を咲かせようとか、実を結ばせようとか、本来出来もしないことに意識が働くことが、心にひっかからない歌の原因なのではないでしょうか。
心が望むのは日差しの暖かさであり、手のひらの温もりです。
少しでも我が儘な自我が歌に現れてしまったら、誰が読んだとしてもそれを日差しとも温もりだとも思わないでしょう。種も花も実も既に読者の中にはあるのですから、2つも3つも押し売りする必要はないのです。少し水をあげて、少し肥料をあげて、少し日差しがあればきっと花が咲き実がなる人ばかりだと思うのです。けれどその事に自分自身も気が付いていないことの方が多くて、簡単に諦めたり消沈してしまうのでしょう。
まだまだ癒やすなどという力を持たない短歌だと思いますが、そんな燻った心に空気を吹き入れる為の詩形であり、歌なのだと思います。
ただ側にいてくれるだけで落ち着くことがあるように、一片の歌があることで落ち着く心があるならば、そこを目指して研鑽してゆくしかありません。
自分自身はもちろんのこと、もしも誰かの心に花が咲くように短歌が寄り添えたならば、この上ない幸せなことだと思います。
肩の力を抜いて、心を解して作歌しなければなりません。
より大きな広い範囲に想いを巡らせて、自分という1本の為だけの水や肥料や日差しにならないように、注意を払わねばなりません。
誰かの胸に咲いてこそ、歌も言葉も輝きを放つものだと強く信じています。
● 背にあてた手の温もりになるような丸い日差しの歌になりたい
言葉にならない哀しさや苦しさを、果たして言葉は癒やせるのだろうか。
2020年2月18日
短歌 ミルク