日々蓄積されるデータがデジタルである限りそれらの全てを保存することは不可能で、いつかの時点で残すべきものと消去すべきものが分けられてしまうことは避けられません。
時間(期間)や生き死にや有償か無償かなど、様々なしきい値となる要素が想定されています。
何時までも残り続けることにNOを突きつけるのは、何も人の権利だけではないのです。
本当に必要な物として、短歌は残り続けることができるでしょうか。
いつまでも曖昧な先送りを続ける人間をよそに、人工知能は今この瞬間も学習を続けています。答えが明確な問いであれば、機械は容赦なく人を打ち負かすでしょう。
果たして曖昧な俳句や短歌のようなジャンルで、人工知能に打ち負かされないことが続くのでしょうか。心の中の情景や心情だから、機械には理解できないと、いったい何時まで言い切れるのでしょう。
Windowsのパソコンでは随分以前から、クリーンアップという機能が実装されています。
自動的にパソコンの中にあるデータで「不必要」と思われるものを削除して、空き容量を確保するというものですが、今は非常に幼稚なしきい値を用いて判断がなされています。
例えば「過去一年間に一度も使われていないデータ」といった具合です。とても単純で、一見わかりやすい判断基準に思えますが、機械は条件のもとに忠実に動く訳ですから、この線引き自体が不条理だとかデタラメであるということはありません。
しかし、実際に勝手に削除されてしまうと、ほぼ全員がこの機能に不満を持つことは容易に想像できます。この機能そのものは使用者が自由に有効と無効を選択することができるのですが、これからの世界では選択をすることが出来ないまま、勝手に削除や排除をすることが前提になるかもしれません。馬鹿な人間に判断を委ねれば、一度も使ったり見たりしないデータを、無駄に残しておけと命令しかねないからです。人工知能と言う名のプログラムに心はなく無慈悲です。淡々と判断し、淡々と削除するだけです。
そう考えると、とても偉い人や有名な歌人でも無い限り、自分の歌を残せる最も確かな場所は記憶の中しかないような気がします。(自分で歌碑でも作れるような方は別ですが・・・)
ですから何度も何度も読んで、直して、自分の不確かな記憶の中にでも刻み続けなければならないと感じています。記憶は不確かだからこそ、読み返さなければならないのです。コンピュータのように一度憶えれば同じ物を何度でも取り出せる訳ではないからこそ、読み返すことが大切な作業となるのです。
ちまたでは短歌に限らず、読み返さない文化が蔓延しています。
今世の中が前面的に頼っているデジタルが叛乱を起こしたとき、読み返さない文化は真っ先に選別されることでしょう。
短歌を作る究極の目的は「自分の記憶に残ること」だと思います。
そのために、消されることのない輝きを放つ歌を求めて、言葉を丁寧に紡がなければなりません。スクショもサイトへの投稿も、何の保険にもなりません。ただ何度も何度も読んで振り返ることだけが記憶に残る一番の近道であり、上達への階段だということは間違いないようです。
もう殆どの歌が「短歌」などとは呼ばれない、呼べないと「判断」される世界は、すぐそこまで来ているのです。
● 読み返し辿る景色の感動にカメラロールの保険は効かぬ
スワイプで読み飛ばし、カメラロールも結局辿らない。何度も言うが短歌はつぶやきでは無い。
2020年2月24日
短歌 ミルク