先頃SNSなどで話題となったある歌の解釈についての様々な意見は、短歌を読み解くことについての意識(自意識)のありようについてとても興味深い内容でした。もともと私は現代歌人の短歌などはほとんど読むことはないのですが、焦点となった歌の読解について、私なりの考えを記してみようと思います。作者が歌意についてどのように考えているかは解りませんが、私は一貫して歌意は作者側にあるという前提で読み解きたいと考えています。
・花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
吉川宏志『青蟬』(砂子屋書房)より
一読すると、告白の情景を詠ったものであることはわかるのですが、ネット上では「告げることができた」のか「告げることができなかった」のかが一体どちらなのだろうという解釈の違いを巡る議論がなされていたようでした。
ごく普通に読み解けば、「告げることができた」と理解できる歌だと思うのですが、たいへん多くの人が「告げることができなかった」という解釈をしているというので、そのことに整合性は見いだせるのかを少し調べてみたくなりました。
私には解釈のターゲットとして、三つのルートが見えてきました。
1・二人で歩いている時間の間で告白はできた
2・二人で歩いている時間には関係なく告白はできなかった
3・二人で歩いている時間の間で告白された(相手の立場で)
難しい用語や理論での解説は他の先生方にお任せするとして、私は「あれより」という言葉にポイントを置いて理解しようと考えてみました。
「あれ」とは花水木の道、花水木の道の長さ、花水木の道を歩いていた時間を指すものだと考えられます。なかった。と終わっているので、これは今まさに過ぎ去った出来事か、もしくは過去に起こった出来事を詠ったものだと思います。道の長さや歩いた時間が明らかではありませんが、「あれ」に実景か実景に極めて近い確かさがなければ後の長い短いが意味を成さなくなるため、見据えておける確かな景色(時間)であるといえます。
長くても告げられない、短くても告げられない、その上に「あれ」がどのような長さであっても結局告げられない、これはそもそも選択肢のない問答のようなことで、
仮に「あれ」をA君、長いをB君、短いをC君として置き換えてみると、
・身長がA君より高いB君でも低いC君でも愛を告げられなかった
A君という基準があるにも関わらず、結果「告げられなかった」という結論を導くことはとても不自然な気がします。普通に考えれば、丁度よい身長のA君だからこそ告げられたと理解できるでしょう。それでもあえて告げられなかったのであれば、もう身長のことは判断基準として体をなしていないということになります。わざわざ記す意味がありません。
では、一体何が告げることを阻害していたのでしょうか。
ここで4つめの解釈が考えられます。かなり穿った見方にはなりますが、
「花水木の道をわざわざ選ぶような人は私は無理!」とでも言いましょうか、
4・二人で歩いてる道が花水木の道だったからそんな貴方が気持ち悪くて告白なんてできなかった
もう一周どころか二周くらい廻って、花水木とその道を選んだ相手が悪者になってしまったような解釈です。書いていてこちらも少し気が滅入るくらいの言われかたですが、「愛を告げられなかった」とあるように二人はそれなりの関係を気付いてその場所を歩いていたわけで、花言葉に絡めて「私の想いを受けてください」という花水木を選ぶような人のことは十分に理解しているはずです。その日、その時の一瞬でいきなり方向転換してしまうような事態はあまりに突拍子もなく、これもたいへん不自然に感じます。
いずれにしても、2と4の「告げられなかった」説にはとってつけた無理やり感が強く、読み込みの浅い思考に基づくものであることが解ります。
1の告白者自身の回想か、より詩情を増した3の告白された側の回想か、どちらかの方がとても自然に受け入れられます。歌の最後に「私は」「貴方は」と付け足して読んでみればより明確にそれを感じることができるでしょう。
「告げられなかった」と解釈してしまうことは、明らかに読解の深度が不足していると言わざるを得ません。
上澄みだけを掬ってみたところで海の色の成り立ちがわからないことと同様に、海は深みに抱える様々なものも含めてあの色になっているのだと思います。読解に時間を費やさず、自意識の思うままに自己に短歌を引き寄せた結果が、誤った解釈を産んでしまうことに繋がったのだと思います。
こんな所にも明らかに短歌の衰退、言葉の軽視化の一端が伺えます。
これほどまでに「読めない」人が多くいるとは、驚き以外の何者でもありませんでした。
2020年6月18日
短歌 ミルク