ある時期から、様々なコンテンツで顕著になったことがあります。
漫画や小説、アニメに映画、TVドラマなどもそうです。
とにかく問答無用に「無敵」「最強」「不死」「万能」「何でもあり」という登場人物がやたらと出てきます。これに伴って、主人公や登場人物の説明口調な膨大な台詞が増えました。
いちいちこれから繰り出すものについてブツブツと呟いてから行動するという、まるで戦隊ヒーローの必殺技や変身時の見得のように、物語がプチプチと切れ切れになって続いてゆく様を毎日のように目にします。何時からか、想像力や想像性というものが蔑ろにされて、ただただ垂れ流されるものを流されるままに受け取っていることに慣れさせられたような、自らの思考を置き去りにするメディアの洗脳にどっぷりと浸かってしまったのかもしれません。
技術や技法だけが発達し、アナログな表面を置き換えるだけのデジタル化に終始する現代は、依然として内に秘められた「真に発したい内容」に全く届いていないどころか、見えてもいないのでしょう。
一から十まですべて説明されなければ解らないようでは、声色や表情から感情を読み取ることも出来ないでしょうし、マスクが必需品となった現在においては、更に難しくなっていることでしょう。
色や音声のなかった時代の映画や紙芝居、漫画雑誌のひとコマの中にでも、作者の内なる言葉は秘められているものですが、もう現代人にはそれを探り当てるスキルも備わっていないのだろうとすら思ってしまいます。
元から深い歌意などなく作られた雰囲気短歌に対して、それらしい根拠や説明を、あたかも深い歌意が存在したかのように皆で探り合っているような、荒唐無稽なやりとりが象徴するように「短歌らしく見えるようなもの」で氾濫してしまった中では、明確な物差しを持つことは難しくなっているのでしょう。
マイナス面の批判や批評に晒されず、かといって自身で深く推敲することもしない。
じっくり考えることからどんどん遠ざかってゆく人々に、短歌はいったい何をもたらすのでしょうか。過度の説明依存に慣れてしまうと、益々「読み解く」能力は退化してしまうでしょう。そのうちに歌集の余白は、長々と説明書きで埋め尽くされてしまうかもしれません。
それとも「わからなくても・・なんとなく」と、これまでのように解ったフリを続けてゆくというのでしょうか。
・ 音もなく静止した絵が物語る心の糸は見えないものだ
無敵、最強、不死、万能、何でもありの物語ばかり。心の弱さの何が伝わる?
2020年10月19日
短歌 ミルク