いろいろな短歌解釈の戯言を読み聞きしていると面白いことがあります。
「無意味な言葉の羅列が意味を持つ」とか「見えない文脈に面白さが・・・」などと、本当に言い訳にしか聞こえない、まるで悲鳴のような解釈論を目にすることがあります。
「余白」とか「行間」とか「主体の向こう」とか、もっともらしい解説も、あまりの中身の無さに笑ってしまえるほど薄っぺらいものばかりです。
自分という本当に小さな世界で起こった(感じた)ことを張りぼてで大ごとにして、しかも棚ぼたで誰かに褒めてもらえる、理解してもらえることを何処かで期待している様な短歌を、わざわざ解釈しなければならないような時間があれば、もっと他のことに使ったほうが有意義だと思います。
同じような事は都市伝説や心霊スポットの、ありもしないような噂話としてよく語られます。トンネルから染み出した水の模様が人の形に見えたとか、××だけは××していないように見えるとか、悲鳴のような声が聞こえたとか、そんなこととまるで同じです。
明確な歌意を持ち、そして想像の及ぶ範囲も根拠の延長上とする私の短歌解釈とは、全く相容れない、そして私に言わせればまるで短歌でもない尖った短歌モドキは、SNSを中心に益々増殖の一途を辿っています。
一見「盛り上がっている」ように見えているこの現象も、その実を問えば多くの歌人の歌集も大して売れてはおらず、書店で見るよりも古本屋で100円の値札が貼られている姿を多く目にします。本の好きな私などは、気に入った本は何冊も買っておいたり、もうそれはそれは宝物のように大切に仕舞っておいたり、買取に持ち出すものとは全然違う扱いをするのですが、いくら電子書籍の時代だからといってこんなにもリアルな歌集はお粗末な扱いを受けているのだと思うと、歌人そのものが言葉を蔑ろにしている影響が出ていると思わざるをえません。
塔和子さんの詩に出会った時、もうこれは何としてでも本を手に入れなければという、強い気持ちに襲われました。それほどまでに素直な心の紡ぐ言葉は美しかったのです。このような衝撃が歌集によってもたらされなければなりません。言葉と心の美しさ、素直さを、歌壇はすっかり忘れてしまったように思えてなりません。ぬるま湯の中で、そこそこの幸せの中で、年功序列のヒエラルキーの中で、最も大事な心の感覚を鈍らせているのかもしれません。
短歌や俳句は、確かに比較や採点することが難しい文芸です。
しかしエネルギーの伝達ロスのように考えれば、心が感じたことをいかにロスを少なくして言葉に置き換えられるのかという手段を競っているとも言えます。
そう考えれば、存在も定かではない幽霊を探す心霊スポットのような、まるで無意味な言葉から深層を探るなど、伝達の何も担ってはいないと思います。
あまりにも読者任せ、棚ぼた狙い、雰囲気重視であることが、すべてをブチ壊してしまっています。
「お化けがいるかもしれない、いるように見える」ことを歌にし過ぎていて、
「こんな気持ちになっているから、普通の出来事がとても怖い」という心の動きを歌には出来ていないことが全く解ってはいないのでしょう。
プロと呼ばれる歌人も含めて、その事に気付いている人は極めて少ないと思います。
・ いるのだと思っているのは自分だけ陽が射したならそれで終わりさ
想像力を褒めてあげたいのは山々だけど、その歌が君の心の何を運んできたのか、それがさっぱり解らない。覗いた万華鏡が綺麗だと言われても、はたしてそれを覗く値打ちはあるのかな。
2020年10月18日
短歌 ミルク