検索サイトで「歌壇の問題」と入力すると、”花壇の問題”ではないですか?と予測変換のAIエンジンに問いただされるように、実は全然一般に浸透していないのが俳句や短歌の世界です。
某ランキング番組の俳句の主宰が解説された動画チャンネルにおいても、「教育的付加価値がない」なんて判断をされる始末で、俳句や短歌のど真ん中にいる人達と、周りの人達や環境との間には、大きな深い隔たりがあることを実感させるものだと思います。
時として言葉の表現は「肉を斬らせて骨を断つ」が如く、ルールや定型や決まり事を無視した用いられ方をすることがありますが、それらは常人とAIには理解されないものになるでしょう。AIは予言や予知ができるのではなく、総当たり分析と「クセ」に相当するような確率分析が殆どで、明確な勝敗のないものではリスクを負ってまで多くのリターンを得るような判断は決して行わないでしょう。
果樹や野菜などの栽培において、「間引く」という作業を伴うものがあります。
より甘くおいしく、実が大きなものを育てるために、生きていて順調に育っていても敢えて命を絶たなければなりません。たとえばこの作業をAIに学習させてロボットにさせることを考えてみます。気候条件や水分や日照、温度や色や大きさ、形など、数値化できるものは多く、一見簡単なことのように思われます。腐ったり、枯れたりして明確に「間引き」の対象になるものはまだしも、他と同じように育っているにも関わらず間引かなければならない場合でも、結局何かを判断の材料にして実行しなければなりません。
先に申し上げた「損をして得をとる」的な思考ができなければ、一切先には進めない事態も想定出来ます。さらに厄介なのは、未来においてそれが「対人間」に向けられることはないのかという不安です。もしも人口が増えすぎて食糧供給が追いつかなくなった時、人すらも「間引く」対象としてAIが選択しかねないという危惧が立ち上がります。
何でもかんでもロボットが、AIがという風潮がやたらと強い世の中になりましたが、未だ台風の中でも飛んでいるドローンはなく、いざという時には殆ど役に立ちません。
人だからこそ、命を抱えている生き物だからこそ考えられる思考回路がとても重要なのです。
「プログラムされたものがすべて正解で、それ以外にはベストな答えがない」と従ってしまうことは簡単なことだと思いますが、それで安全や安心が脅かされる状況もあることを強く認識しなければなりません。
「曖昧な判断ができる人だから」・・・・ということを歌壇はまるで免罪符のように、明確な基準や判断から逃げ回っています。いつか言葉がそれを許さず、AIがきっぱりと否定する時代がやってきます。日本語がこの後あと千年続くなら、万葉集ですら一つの通過点に過ぎません。趣で語られるものは残すべきものではなく、残るべきものでなければなりません。
時間にしても、時代にしても、見えているようで見えてはいません。AIのような正体不明の相手とも対峙しなければなりません。いつまでも遊び半分のぬるま湯歌壇では、とても千年の時の濯ぎに耐えられないと思っています。
・ 濯がれて真白の生地が取り戻す心の色は褪せていないか
もはや貴族の遊びに付き合う猶予はない。千年を見据えて言葉を磨き続けなければならない。
2020年10月20日
短歌 ミルク