環境や時間の制約で作歌の時間が取れないということを除けば、詠めない時は一旦休憩をしろというサインだと思っています。
どんなに暇であっても四六時中短歌のことを考えているのは、とてもストレスを感じることではないでしょうか。やはりほんの少しでも心には余裕が欲しいものです。
ただし詠めない時にはそれなりの準備も必要となります。
浮かんだ言葉を書き留めておくことは何より大事です。私などは往々にして風呂に入っているときに浮かぶことが多いので、幼児向けの書いては消せるおもちゃのボードを常備しています。とにかく浮かんだら書き留める、そして書きだして短歌の部品になるかどうかを確かめる、という作業に時間を使うようにしています。
もちろん他の方が作られた短歌を読むことも重要です。
できれば素人の方が作られた歌が良いと思います。
私は過去の短歌大会の入選歌や投稿歌を載せてある冊子を見ることが好きで、古い物を探してきたり、図書館に行って調べたりして読んでいます。
一般の方が作られた歌はとても広い範疇、広い視野、多くの経験から詠まれており、たいへん刺激的で有益だと感じています。
また、歌集ではなく歳時記もまたこのような時の為にあると思っています。
今日は何の日というような本や歳時記は、普通の生活の中では見落とされがちな移り変わりと、寄り道の意義を教えてくれるような気がしています。
あまり使われていない言葉や呼び名と出会えるのも魅力だと思います。
ネットを開いてみるのは、もっぱら季節の花と鳥たち、虫たちという自然の生き物が多くなります。歌は写真と現象を裏付ける根拠があれば、何処にも出て行かなくても詠めます。
実物を見たり、実景を見たり、確かにそれなりの感慨はあるかもしれませんが、結局は歌にできなければ意味がありません。(作歌をするものとして)深くイメージ出来る能力のある人は実体験を超えて言葉を紡ぐことができると思います。
また、先にも申し上げましたが、なかなか自分から離れることができない人に向けては、人が全く登場しない歌を作られることをお勧めします。蟻の目線も飛行機の目線も、灯台の目線もポストの目線も、非日常的な視点が芽生えるかもしれません。
そしてあまり型にはまらず、自由に作れば良いと思います。
ただし、抜き言葉だけは使ってはいけません。これは味わいではなくただの数合わせです。
旧仮名も同じく、数合わせや雰囲気で使うのならば不要だと思います。
様々なものを見たり読んだりして見つけた言わば(短歌の部品)をずらりと書きだしてみて、少しずつ成形してゆけば必ず歌の形が現れてくるはずです。
私も含めて初心者は必ず最初に指を折って、数を合わせようと歌作りを始めます。
だから失敗の連続なんだと思います。
数よりもしっくりと来るものを探すために歌を作っているのです。
何よりも本質を忘れてはいけません。
細かな観察はそれからです。
以前に、遅くまで電卓片手に見積書を作っていた時、疲れてぼーっと机の上を見ていました。ちらっと何かが変わったような気がしましたが、その時は気付けず、また作業を続けていて、またぼーっとして、でも今度は何処が変わったのかを確かめたくて意識して机の上のものを凝視し続けていました。約6分後、電卓が数字の代わりにCASIOとアルファベットを表示して切れました。「おぉぉ!」と声を上げたことは言うまでもありません。
作られた方が製品に込めたユーザーへのメッセージにすら、よくよく気をつけて生活していなければ気付くことなどありません。この経験は短歌の作歌についての観察にとてもよく似ているものだと思っています。
意識して集中して、6分間の(無駄)を経験した後のご褒美のように思えるのです。
・ 相棒は主張はしない六分後 "CASIO" といって瞼を閉じる
見ようと思う人にしか見えない景色、それは絶景ばかりではない。
2020年2月14日
短歌 ミルク