前回に短歌は映画のフィルムのようだというお話をさせていただきました。難しい例えだと思いますが、更に厳しく申し上げるとフィルムでも「ネガ」の方だと思っています。
常々、簡単な言葉と簡潔な表現を心情としておりますが、それは単純な写実を好んでいるわけではありません。まるでネガフィルムのように、一瞬ではそれが何を指し示すのかは解らないけれど気づきを得た時にはじめて明確に像を結ぶものが、本当に言葉や歌の持つ力なのではないかと思っているからなのです。
逆再生して考えて見ると、カラー写真からネガをイメージすることは極めて難易度の高いことですし、それを踏まえて歌を作るとなると、気が遠くなるような時間がかかりそうです。しかし、このことを踏まえて作るのか、無視して作るのか、それは結果に大きな違いをもたらしそうな予感だけはしています。
短歌を詠まれる皆さんが時間の掛かる深い考察や読み解く時間を嫌うのもよくわかる気がします。
これらは単にこだわりの域を超えないただの自己満足なのでしょうか。
私自身も何度もこの問いを突きつけられ、自問自答を繰り返してきました。
誰かにアドバイスや助言を求めたりすることは簡単ですが、歌意に責任を持って、歌意を曖昧に譲らずに手元に置いておくには、やはり自分のやり方で作る他はないという結論に至りました。
それが結果として読んでいただいた方に共感や同意を得られにくいとしても、最悪は自分という読者が解ってくれればよいという気持ちで作ることに決めました。
小さなラジオ局のように、チューニングが合った人だけが聞いて下さればそれでいいというような心持ちです。
こうやって一つの歌に多くの時間を費やす無駄が、私に「ひとりでも気付ける」ヒントを授けてくれました。
自分というのは最も甘い読者であり、最も厳しい読者でもあります。
突き放すことも出来るし、締め上げることも出来ます。
だから自分で気付くことは難しいのだと思います。
詳しい地図のように完成されたものでなくても良いので、自分で地図を作って読者を自分の歌意に近づけてゆきたい。そのためには自分の周りだけではない、見えている多くの物事に対する細かな観察が欠かせません。ただ遠くを眺めてぼんやりする人に向けてではなく、まだ先を目指す人に向けて地図は書かれなければなりませんし、私の地図を見て一人でも先を目指そうとする人がいたとしたら、もう止めるわけにはいきません。
生来、私はサボり癖の強い、泥臭い努力が一番嫌いな人間です。
ですから、手を広げて閃きを常に待っています。棚ぼたのようにキラキラするような表現、うっとりするような言葉が降りては来ないかと、そればかりです。
そう考えることの強い源泉は、実は大半が無駄となる歌への考察の時間の中で培われます。
100%の割り振りは変わらず、やはり1%の閃きの為には、99%の無駄と思える努力が欠かせないことを歌作りは教えてくれています。
学も無く、才能などというものと縁遠い私にとって、閃きは1%しかないのだから、もう腰を据えて99%の無駄を続けていくしかないと思っています。
● 当てられた光は影でものを言う見えているなら影もまた道
光で導くなんて性に合わない。影の中でこそ小さな光は見える。
2020年2月11日
短歌 ミルク