短歌と出会い、短歌を作り始めて約3年ほどが経ちました。
今から見ればまるでゴミのような歌から、ずっと心に抱いている歌まで、沢山の歌を作ってきました。多分二千くらいの数になると思いますが、そんな中でまさか自分の作った歌を覚えているなんてと驚くくらい、多くの歌を覚えています。もちろん作った本人ですから、憶えておいて当然だと思われるかもしれませんが、実際に沢山の歌を作られている方の中でも、ご自身の歌を憶えておられる方がどの程度いらっしゃるのでしょうか。
十や二十なら解りますが、数百も数千もあるいは万単位で作られている方は、一体ご自身の歌を憶えておられるのでしょうか。
「深く読まれない」ということの危惧がたちまち此処にあるような気がします。
作歌した本人でさえ繰り返し読み返すことのない歌を作ることに、何の意味があるのでしょうか。
繰り返し読まない、憶えない、愛着も湧かない、そして後に読み返して、決まったように「あーぁ」「ふうーん」「それで」の繰り返しをして、やっぱり「普通を続けることは難しい」「普通が最高!」なんてもっともらしい言い訳をして感慨にふけるのでしょうか。
素人としては短歌は暗唱できるまでになって、一つの完成型に到達したと言えると思います。
善し悪しや、個人の好みではなくて、作歌した本人が噛みしめて噛みしめて噛みしめて、短歌でなければ表現できなかった世界が詠えたとき、少し満たされるものが湧いてくるのだと思っています。
出来映えに関しては完全に自己満足の世界かもしれませんが、私は自分が暗唱できる歌がたくさん出来たことをとても幸運なことだと思っています。
これは投稿サイトに投稿したとかしないとか、そんなこととは無関係の、短歌への取り組みを続けてきたことの蓄積がもたらした結果なのではないか、少しは「短歌脳」とでもいうべき思考が身についてきたのではないかという自覚の現れではないかとも思います。
ふらっと外に出て、メモもスマホも何も見ないで、どこにいても自分の歌が暗唱できる。
こんなに素敵なことはありません。
心が豊かになるということは、まさにこういうことです。(たぶん)
今は自身を持って「短歌を勉強しています」と言えます。
それは社交辞令の「いいね」や「フォロー」を超えて、短歌のもたらす喜びを手元に引き寄せようと費やした時間が、決して無駄ではなかったことを確信したからに違いありません。
● 何処ででも何度でも口ずさむ歌 心の恋人は遅れてやってきた
一途なことを君は笑うのかな、たとえ君が忘れても、もう僕は君のことを忘れない。
2020年2月15日
短歌 ミルク