古典を少し読み始めてから素人なりにも正岡子規の視点が少し解ってきて、とても勉強になっています。同時に、なぜ子規が古今や貫之を嫌っているのかの一端が見えてきたのも確かです。ほとんどの歌が、目の前に絵を抜いた額縁を掲げて(もしくは誰かに掲げてもらって)ただただ借景とする風景を物色し、それでも物足りなかったら適当に想像で付け足しているに過ぎないもので、それは永遠の雅かもしれませんが、もう嘘っぽさ全開でたいそう大げさな世界に成り下がり、もう実感よりも絵空事に近い描かれ方になっています。
これを圧倒的な幽玄とか、見えないものを観るとか、不完全の美とか、もののあはれとのたまう識者に、私も何とも言えない違和感を感じてなりません。
なんだか天動説と地動説の話のようで正岡子規がガリレオに見えてきました。
何が引っかかるのかを自分なりに考えてみると、歌を詠んでいる人の位置にとってこうであれという願望はあまりに傲慢で、自然や自分以外の他に対する畏敬や畏怖、命を尊ぶ気持ちが寸分も感じられず、自分たち以外は作り物でも、動かなくても、移ろわなくても成り立つ情景ばかりだからです。
写実が優れていて抽象が劣っているとは言いませんが、柔軟な画角とピントが示す写実の機微は、平安中二病の歌人達にはない、素晴らしい味わいとして、時代を超えて読み手の心に染み入るように届きます。
人間らしい味わいのない歌は、簡単にAIが作れるようになるでしょう。人工知能にとって古今や新古今を真似て作るのは他愛もないことだと想像できます。歌は詠んでいる人の「心の景色」であり、言葉を当てはめて遊ぶパズルとは異なるものです。自らの心が動いているとの実感が言葉を使って現れるものであることを知ってしまったから、事象を慈しみをもって見つめることが出来るのだと思います。
命への生への畏敬畏怖は無く「だったらいいな」の無い物ねだり
こんなに美しい、素晴らしい夢を見ましたと言われても、そうですかとしか答えようがない。
2019年7月8日
短歌 ミルク