「そこに山が・・・」なんてロマンチックなことは別として、多くの人が頂上からの景色を見たいとか、登山の達成感を味わいたいというように答えるのではないでしょうか。
純粋に自分がその景色を見たい、味わいたいという欲求が山へと人を駆り立てるのですが、
一部の馬鹿げたチャレンジャーを除いて、簡単に登れそうだから登るなどという理由はあまり聞いたことがありません。富士山も五合目まではバスで簡単に行くことができますが、それを登山かと聞かれれば殆どの方は登山ではないと答えるでしょう。
短歌の果てしない道程はそのものが大きな山のような存在ですが、インターネットとスマートフォンを手にしてしまった人達が乗り合いバスで殺到しているような感じを受けます。しかも本人達は五合目くらいまで軽く登れてしまっているかのように、大きな勘違いをしたままで山そのものを感じ取ったかのように呟いています。
短歌においても、山のように頂を目指せば幾つものハードルが存在しますが、そんなことはお構いなしに、いったい山のどのあたりにバスで登って、登山家を気取っているのでしょうか。そんなお気楽短歌もどきの作者でも誰でも、歌人と名乗れる短歌の山とは随分低くなだらかな山に見られているものです。
山も当然そうだと思いますが、登山口の一歩目から頂きに至る最後の一歩まで、すべてが異なる景色を見せてくれます。一合目には一合目の充実があり、二合目には二合目の達成感が伴うものです。五合目までバスで行って、三合目の景色を味わうことはできません。なだらかな傾斜を歩いたからこそ、険しい傾斜の厳しさや怖さを知るのだと思います。
こうやってイヤミのように書けば必ず、「日曜登山気分で登れればよいのでエベレストのような上は目指していません」というような声が返ってきますが、だからといってその場所を山だと認識していなければどのような低い山ででも遭難してしまいます。
「散歩のような山歩き」と「登山」を一緒にしてしまうと、手痛いしっぺ返しを喰らうものです。
人々が高齢になっても長く生きられるようになり、短歌結社や短歌界もかろうじて延命していますが、厳しい登山のノウハウや経験を後世に伝えておかなければ、いずれ散歩のような山歩きしかできない人達ばかりになってしまいます。ハードルを下げて裾野を拡げることも大切ですが、あまりに野放しになってしまうと日本語という言葉の崩壊にも繋がり兼ねません。
短歌界は完全に昭和で止まった時計の様相を呈しています。
俵万智さんが巻いたゼンマイをもう誰も廻してはいません。いや、廻せないのかもしれません。
圧倒的なリアリティにはほど遠い、夢見がちな平成や令和の時代には、もう山はVRで登るものなのかもしれないとさえ感じます。そんな遭難した登山者ばかりをサイトで見るにつけ、もう山の端々の景色が美しい言葉で伝わることなどないのだろうと思います。
作り物で満足している人に、それ以上の景色は必要ありません。
私にはそのゼンマイを巻く力など到底ありませんが、誰かがゼンマイを巻かなければ新しい短歌界が動き出さないであろうことはよく解ります。
そのように感じる人が一人でも増えてゆくことが、唯一短歌の生き残る道だと信じて疑いません。短歌は決してなだらかで優しい山などではない、とても過酷で危険な登山であることを今一度肝に銘じて取り組んでゆきたいと思っています。
・ 登れずに眺めてばかり古の歌に歩いた景色などない
「圧倒的なリアリティ」それは自分の足で歩いた道だからこそ。
2020年6月24日
短歌 ミルク