短い距離でしたが、列車に乗って学校に通う時期がありました。
何もない帰宅時の時間帯などは、椅子に座ってウトウトしてしまうこともしばしばで、ガタンゴトンと結構な音のする中で、暫しまどろみを楽しんだものです。
線路の製造や運搬の制約から生まれた長さがもたらす継ぎ目の音は、なぜ心地よい響きとしてもたらされるのか、そんな疑問からの気づきです。
技術的なことはさておいて、もしも線路に継ぎ目が無かったら、どんな乗り心地でしょうか。さぞやスムーズで静かなことが想像できると思いますが、結果として滑るように移動できることは果たして幸せなことなのでしょうか。
実は現実の世界でこれとよく似た状況を目にする機会が増えました。
ハイブリッド車や電気自動車とお年寄りの関係です。
ただでさえ目や耳が不自由な高齢者が、音もなく近づく自動車を認識することはハードルが高く、よくショッピングセンターの駐車場などで引かれそうになる人を見かけます。
1.5tもある鉄の塊が音もなく近づいて来ることは、どんな生き物にとっても恐怖でしかありませんが、自動車を作る側はそんなことは全く意に介さずにいるようです。
このようなせめぎ合いが現在の世の中には蔓延しているように感じています。
そして、表向きは波風が立たないような状態にしておこうという風潮もそこかしこに見られます。
平穏は本当に人の為になっているのでしょうか。
人は簡単に錯覚というものに陥ります。列車の例で言えば、止まった車両の中の自分が、すぐ脇をゆっくり移動する列車を見た時、自分の乗っている方が動いていると勘違いするようなことが頻繁に起こります。
何も起こらないこと、平和なこと、不都合や不合理を感じないことが普通だと錯覚してしまった時、もしかすると心は何者かに支配されてはいないでしょうか。
元々無臭のガスに臭いが付けられていることや、無色のガソリンに色が付けられていることを当たり前だとスルーしていないでしょうか。こんな例はいくらでもあって、我々は常に本当の事を知らずに、錯覚に酔ったまま日々を送っているのです。
平和で平穏で安全なことは確かに望むべき環境かもしれません。しかし一人一人が深く考えなくなってしまう事には常に深い懸念がつきまといます。
様々な理を経て、ガタンゴトンは必要な音として存在しているのではないかと思っています。
短歌という文芸には社会に皮肉を訴えるという側面もなければなりません。
短い言葉だからこそ、その鋭さや角度が辛辣な武器となって心に突き刺さるのだと思います。
「何も歌が浮かばない」「歌にすべき発見がない」ということは、波風のないことや、波風が立たない方がよいと思う心の証です。
自分の心の泉に石を投げられるのは自分しかいないのです。
あなたは支配されたまま生き続けることを望みますか?
● 平穏は悪魔と似たり歪み持つ世間を見ない見させないため
何も考えさせないこと、それは究極の支配と同じ。
2019年12月13日
短歌 ミルク